しっとりとした反復安寧の時を感じるままに草刈の続きにも手を出さず、昨日は手術前のストレスが見受けられる母親を遠路買物に連れ出してドクダミを手に入れ、立ち寄った草木の店では幼木にも目をくれる。夕方前には山に戻り60年代の記録映像を観てからいずれにしても半世紀かと溜息を伴わせて70年代を捲っていた。
ここ数日蕎麦ばかりを喰っていたので肉を買い煮込みをしながら緩く書物を辿った二日ほどの休みもあったか、気忙しさの剥がれた目玉で濡れた高原にカメラを向けて、そろそろとりかからねばならない「皮膜」へなるべく静かに歩み寄ろうと思でもなく考える。こちらは権威に対するカウンターを放つとか新しい構造を目指すとかの世代ではなく乱雑な廃墟に似た散乱の世界に呆然と立ち尽くす感触から始まっていた、まだそのままだと、幾度も思いが繰り返される読書の中で、疲れを知らない眼精の執心のようなものに呆れる。