言語特性に忠実ということなのだろう、この国の言葉へ変換後の「音読み」ではなかなか馴染めないセンテンスの構造があり、だがすんなり口語に結ばれる意訳というのも卑しいものだ。読み込みが寸断される翻訳に慣れるまでは、仕方ないと諦めて捲りはじめたパヴェーゼの「美しい夏」の、結局こちらには馴染みそうにない物語でさえ、辿ってみたいと思うようになったというべきか。
夜な夜な映画ばかりの、制作者の目へ憑依を続けた季節があったので、縦書きの文字が掻立てる想像力が、ともすれば思いがけない解読を伴った日々遺す静止画像の観察に繋がる。映画の速度は、性急さが忍んでくるので、スローモーションに近い「描き」を策定しているので、いずれにしても読書のほうがよいかもしれない。
妙な気象がコロコロと変転する度に、これまで左右された苦にした憶えはないけれども最近は、どうも軀に直に作用する。気圧の抑揚が心地の浮き沈みとなるので、植物のような命になった気さえする。
蕎麦が美味しい。