作品を主体化(作り手の分身化:自己投入の表象化)させない抑制の手仕事というものは、最初に取り入れられた様式(構造)の外の作業(形成に関する)としては類型的なものとなり、その整理の仕方というものが別途ある。この整理も抑制下で行われるので、極端な上下(清潔と乱暴)が切り捨てられ凡庸へ集まり倹しいものだ。併し繰り返すことで倹しさは意匠として安定する。但しこの作品状態(距離感)を逸脱した進捗を目論む(反復によって促されることはある)と時に逆転し、嫌みな「整理された主体」として豹変することがある。作品の構造(フォーマット)が不安定である場合(前提として安定はしていない)、構造強化へ傾くのだろうか経験的情動へ歪曲するかの恣意が無意識に手元に流れでることがある。こうした危険から逃れるには「物」自体への対峙から「光景」へそれを放り投げること(光景へ押し戻す)で回避される。故に展開状況を睨む想像力が強く求められる。
巷では生活に何も持ち込まないミニマリストが流行っているようだという記事を眺め、物質的な豊かさという絵に描いたこれまでの社会生活そのものから離反する意志としての傾向もあるだろうがどこか貧相な印象があるのは、身の回りを簡略化させるにしろ大した空間ではないだろうし、手持ちのデジタルツールを全て処分しライブコンサートに出掛けるようになったという彼らは、生理的な子供染みたスタイルへの転向にすぎないと思われた。ミニマルな追求は煩雑な混濁からしか生まれない。