朝から独りでせっせとセッティングをしていると、若い学芸員の方がひっそりと真摯に手伝ってくれたので、お礼にCDをプレゼント。10月一杯は、ショップブースを撤去するので、11月頭に販売用CDを用意すればよい。昨日判明した不足分を購入用意してきたikeda,gentaと3人でなんとか無事(?)セッティング終了。出品予定2作家の作品が届かず。ひとりはイタリアからの航空便と、もうひとりは搬入日を勘違いしていたとのこと。多忙であることはわかるが、それは皆に共通のことなので、こうしたことは問題なり。
今回、使用したPCの、自動起動と自動終了という利点を実感する。システムが複数混在する設置を、開館と閉館時にスタッフの方々によってシステムの起動と終了をお願いするので、操作はなるべく簡略化させるべきであり、その為には効率が良い。gentaの書いたスクリプトのお陰。ありり。然し、まだ幾つか不安点があるので、明日の記録撮影時に対処。
重田館長の工夫と工作技術には敬服。非常に助かった。ただ、かなり過酷に使用されてきたミュージアムであるので、都度丁寧な現状復帰意識とそれなりの修復が必要。使う側にもそういった繊細な意識がなければいけないので、印象をjinに報告。
疲労があったので、細部のチェックは、明日の記録時に持ち越しで、今夜はじっくりゆっくり何も考えずに寝よ。
と思ったが、このところ午前零時より連日シリーズで放映されている、NHKハイビジョン特集「マニラ市街戦 証言の記録」を観る。丁度持ち込んで捲っていた「映像論」/港千尋の。「シンドラーのリスト」批判部分、「ショアー」に関する件と重なり、まるで「行き行きて神軍」だと、制作側の新しい時代の倫理を感じた。だが、35名の証言者の数、あるいは記録と証言との符合を辿る点など、内容に不十分さがある。アウシュビッツが虐殺として取り上げられ、それは事実だが、そもそも戦争という幼稚な短絡決断こそ、虐殺行為と名指して恥と知るべき。何度も知るべき。こうした試みは、例えば60年前の過去をひっそりと確実に息づかせ新しい文脈を現在に形成することになる。マニラ死守を海軍が遠隔地コントロール(この采配は現在の匿名性と似ている)でゴリ押しして市内に篭城、陸軍の山間部撤退判断と分裂。斥力が生まれ嫌悪し合うという縦割りは、現在の組織にもあり、幼稚すぎて呆れ果てる。当時それでもいた筈の明晰な頭脳の中で見る夢は何だったのだろうか? だが、過去の間違いを分析し、断片や役割に善し悪しを与えても意味がない。記録の全貌を克明に知ることが、現在を生き抜く知恵に加わり、迷いを払拭し未来選択の正当性を得ることができる。アメリカ軍の一般市民10万人虐殺と同時に進行した「解放」という名目の理不尽な命令に従ったアメリカ軍兵士も、1ヶ月前には隣人であった内部告発者をリンチしたフィリピンの人々も、辛うじて生き残った日本軍士官も、殺戮の過去を記憶以上に身体に刻み込んだ痛ましい人生を送るしか無かったということが伝わる。齢を重ね、自らの死が近づいている時になればなるほど、罪悪の意識に苛まれ眠れぬ夜が続くのだろう。「人が人を殺す」という行為に関して、宗教の力を借りずに、「嫌悪し、否定しなければいけない」と徹底して親から子へ伝えるべき世紀となったと何度も繰り返して呟かねばいけない。
TVでは、視聴率の為とかいって、人気俳優が口を尖らせて拳銃の煙を吹くような、あるいは、悪人退治だと日本刀でばっさばっさ切り倒す「人が人を殺す」物語ばかり垂れ流しになっていて、嘔吐感は募るばかり。スポンサーの組み合わせをみるとぎょっとするようなものがある。