花井君の倉庫を拝見して、思いがけない空間が目の前に顕われたせいもあり、機器の梱包送付を急ぎ、新幹線でオフィスに戻り、早いうちにデータの残務処理をしてしまえと、週末を潰し数日間をデータから辿ったせいもあり、計画と実現との差異から溢れる想起の数々を転がしたせいもある。「場」(環境・空間・状況)の、現実感のある正当性の獲得攻略をふたたび遅々とはじめた。
例えばある人間は、手に取る出版物として写真集や画集を出版発行する夢を抱き、別の人間は、特殊な経験空間の構築に想いを走らせる。あるいは、マスメディアによる自己表現の配布伝達を願い、あるいは適正価格で「自己」が販売されることを祈る。
「場」の獲得が、こうしたビジョンと一致しない事を再検証して、有効で明晰な形態をビジネスモデルとして描かなくてはいけない。
出張時の留守の間録画していた24シーズン6を、散漫に眺めて、水戸黄門のような分かり易いキャラ立ての娯楽と、時々早送りもしたが、このドラマが人々を啓蒙する「人間の正しさ」という隠喩ギミック(罠)は、聖書のようでもあり、蓮實が示す漱石の「排除と選別の体系の確認」(倫敦塔訪問)の逆説とも見えた。
vol.5の記録を眺めて、展示が注視を促すには別のアイディアの投入が必要だが、それよりも個別表象の「このひとつ」という成立のはじまりへ立ち戻ることを優先させるべきと判断するに至る。