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・・・・・・決して手の届かないものへの夢が、ある日わたしに写真を撮らせることになった。もちろん、芸術的な意図があってのことではない。写真の美学的な側面は、わたしにはぼんやりと分かる程度に過ぎない。撮影されたイメージのツルツルの表面は、わたしには何も語りかけてくれない。わたしには、まだ目が見えていた頃に出会った人物や風景の物理的な痕跡しかないのである。つまりわたしの視線とは、他人によって見られた写真のシミュラークルとして存在しているに過ぎないのだ。ところがわたしには、この大いなる無用性こそが嬉しかったのである。

エピローグ/闇の視線/映像論/港千尋
kojienokura.jpg記憶の嘔吐物にまみれるような時間の中、知覚が偏り、見えることと触れるものの認識というより体感の差異の、戸惑う仕草に慌てて窓を開けていた。最早コンセプチュアルな計画の線上には、進行のスタンスが無いと分かったのは、機器をケーブルで繋いだ時でなかったかと振り返っていた。
書物よりもメディアからの享受によって過ごした膨大な時間のせいか、断片の琥珀としての効果は絶大であり、これがいかに固有で特殊な感触であれ、針を注入しDNAを抽出する手法に終始せざるを得ない。享受の形態が、未来という前向きな未知に向かう傾向は、年齢とともに変容して、前方の倍程の後方を現在に捉えるのは、月並みな人間的な生であるのだろうが、振り返る記憶にも、別の未知が横たわり、それが自身を示す驚きは言葉にできない。こんな知らない場所に放り出されたような空白のため息の時、榎倉康二の写真作品を憶い出す。
ソファに身を沈めて、Evgen Bavcar(1946~)から、Blue/Derek Jarman(1942~1994)へ舞い戻って辿ってから、髭を剃ろうと湯槽に湯を張り、何気なく手にした耳栓をして瞼を閉じると、そうかルクソールか! と音のしない生が気づいた。