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学校が早く終わった次女が、オフィスに材料を持参し(不足分はマルエツにて買い出し)、なんとも凄まじいハンドメイドのフルーツパイをオーブンレンジで焼いて作ってくれたので感激する。娘は仕事の横でせっせとパイ生地を伸ばし、卵の黄身を塗り、オーブンをあたためて、自宅から持ってきたカスタードの上に、目によろしい冷凍生ブルーベリーと、カットフルーツをどっさりぎっしり並べる。将来はパティシエになるかい?と聞くと、楽しそうだけど、お仕事だと自分で食べれないからなぁ。とあっさり一言。夕方には自宅へ帰し、こちらは残ったパイをヒヒヒと腹に入れると眠くなり、カウチで深夜迄惰眠をむさぼる。ドライブの夢を残滓を引きずって、慌てて業務にとりかかると、再び最近の世相の気分に同調し境界に立つ憂いが膨れる。

Kiyoto Fujiwara
Red Mitchell
Richard Davis
Serge Koussevitzky
Bernard Zighera
Pierre Luboschutz (1891 – 1971)
Stefano Sciascia


エイジングを兼ねてiPodにいれたばかりのS.M.V. とASAを繰り返し聴き続けていると、なるほど骨太でシンプルな音であるなと考えさせられた。音が思想として成立する。モノをつくる姿勢そのものがストレートに顕れることは創作の基本であり、インゴット金属のような固有な固まりであるから、がつんとやられるわけだ。この国の例えば携帯電話や販売促進など混在する思惑が基本を陵辱して寄り添う顕れの数々の謂わば、糸をよりあわせた多彩な集合体のような氾濫は、ひとつの想いのようなものをうち捨てる仕組みであると、なかなかわかっていただけない憂鬱な気分に落ち込みそうになったが、二月堂や弥勒菩薩などの仏像に顕れている、これもこの国のしなやかで剛健な歴史に目をやると、インゴットとまではいかなくても、そうか刃のようなものもあるかと、少し落ち着く。