Besessenheit、spirit possessionの学術用語の訳語として1941年に秋葉降「朝鮮巫俗の現地研究」にはじめて使われ、一般化したのは戦後だろうと池上良正(1949~)が指摘している「憑依」を巡る詩文のようなものにとりかかる。/ 小松和彦(1947~)「憑霊信仰論」
見る聴くなどといった知覚を尖らせる人間の外部探求の核に憑(つ)くことがあるとして眺めればとはじめるわけだが、正常ではない人間の精神異態として扱われる概念や臨床があり、これを合理的に説明するつもりはないので、憑依の能動と受動という両極の側面から辿ってみようかと。憑依の作家として「続明暗」水村美苗(1951~)が浮かぶが、例えば物真似芸人なども同様に対象に取憑く憑依に似た能動的アプローチを行う。神懸かりや狐憑き、ヨリマシ(尸童:稚児など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女 / 柳田國男 1987~1962)、マリアが降臨したファティマの宗教的幻視なども、光景としては主体が判然としない顛末と騒がれるだけで、よじれた精神の状態を批判的に証されているわけではないので、こちらとしては単に人間的な震えのような集積と気概に結ばれると面白い。
外部世界への直接的な関わりを欲望する作家などは元来憑依のバイアスに支えられている気がする。対局にあるのは自己諧謔の極みである厭世悲観論か。日常的な恋愛なども憑依から説明できる部分があるかもしれない。