思いがけない小さな嬉しさを転がしてウイスキーを呑み早々に寝付き目覚めた早朝の軀の内側に染み込む初雪の大気に至福を感じる。
いつだったか誰だったか、わたしは言葉を使うものではないから言葉の力に迷わされないなどと宣っていた。確かにその人間は寡黙な腕だけを使う人だったがわたしは頭を傾げていた。こちらは使えるものはすべて使う。右手の人差し指だけを大切にするつもりはない。そういう意味合いを噛み締めるように言葉を再びまた紡ぐとイメージとか物語とかの演繹ではなくなり、記述することから立ち上がる即興の緊密がメロウな言葉を運ぶ。ようやく体感のような知覚そのもののような言葉の捩れに出会える気がする。これも過ごし方生き方から促されるにすぎない。
同じような気づきとして写真は記憶に留めるものではなく、見つめることによって現在を展く技術手法であるから、この選択に腑を落とす現時点に過去と未来が一気に立ち上がる。