中央ヨーロッパの美しい海辺の街のカフェで、隣のテーブルに座った恰幅のよい男に、
「あなたはキム・ジョンナムに似ているなあ」
とドイツ語で言われ、かなりズドンと凹む。
はっと目覚めて夢と知ったが、心は暗いままのこった。
ニュースでマカオにキム・ジョンナムが出現したと報道されており、ぎょっとする。
こんな予知いらない。
gears of warをやってみると、トータルな意味でついていけない。が、これが現代の典型的な娯楽欲望の形態と知る。
R18であり、こうした表現で青少年の心を蝕み犯すことが、日々無知蒙昧に雛形報道されるけれども、正しく清いとカテゴライズされた差別空間を整えた、一見黒い滲みのない環境にこそ、疑心暗鬼から深い悪意と狂いが生じるのであって、淫らな社会体験と能動的目撃によってのみ、矛盾への批判、あるいは正当性を希求する心は生まれない。
但し、殺戮という仮想のぎりぎりまでの表現は、本能的に嘔吐を醸す。ユーザーは慣れるだろうが、この慣れが現実へ簡単にスライドして、無感覚で率先して殺戮へ飛び込むことは、個体が社会的な運動体であるかぎり、落下傘降下よりも生理的にあり得ない。狂った集団が促しつつ支え、あるいは強制的に命令服従させないかぎり、個体は本能を裏切れない。エレファントのような事件は、むしろ根拠や目的自体が発生と同時にある自滅意識=自殺行為の内に取り込まれており、孤独な自慰でしかない。嘔吐感が伴う殺戮のイメージが生理的に駄目な人間は、社会的に生きる上で、こうした仮想を試す意味はあるが、いずれにしても独りで行うゲームではない。Gentaと批判的にやってみよう。いずれオブジェクトが個別に反応するシステムは別に使える。
現代のイコン(象徴的人物像)として、写真・映像・CGゲームキャラなどと捲り続けて、やはり市井のリアルな「人の顔」というものが表象に見えてこない。最新のフルCGによる美男美女も、その皮膚や眼差しの、Mona Lisaを凌駕するに整形加工技術を眺めても、ダ・ヴィンチの眼差しに灯る深遠な心の深さには遥か届かない。現代は顔を喪失しているということになり、これはちと恐ろしい。
VE_publicのハード面の設計図にとりかかる。
眠り込む手前に、レンブラントのニコラス・トゥルプ博士の解剖学講義のような、あるいはフェルメールの手紙を書く女、ベラスケスの宮廷の侍女たちの奥の人物がゆっくり動くような像が瞼の奥に浮かんでいた。否、引用したものよりも暗闇が深く、顔の表情は辛うじて辿れる程度のものだったが、皮膚の質感だけが異様に具体的で、人々の目元は暗く顎の先に左上から弱い光がその輪郭を表し、彼らは寄り添ってゆっくりと、非常にユックリとした動きを孕むように、静止していたかもしれない。囁きの中、Luna Faceの新たなヴァージョンが閃く。
新宿ガーデンシネマで市川崑物語/岩井俊二(1963~)、国立新美術館を巡ってきたというGentaが、横浜での仕事もあってオフィスに訪れ、VEのミーティングなどしつつ、彼の新しい脚本を読ませて貰ったせいか、情景を追う姿勢が寝入る直前に残ったようだ。David Benioffを読んだようで、脚本に瑞々しい映像が浮かんだ。監督・脚本・編集・音楽と全てを独りで構築する第2の岩井となれ。
Gentaの若い瞬発力で、批判的にGears of Warを攻略してもらうと、驚く程サクサクと先へ進むが、ひとつのミッションが長いので、このへんでやめておこうとういことになった。やはりGentaも殺戮の描写は心地よくないらしい。独りでやるものではありませんねと呟いた。ベトナムやイラクで実際に戦闘を経験した人間が、こうした追体験を行う時の感覚とは一体どういうものか?
個人的には、VEは、「死の間際、その手前、トランプをシャッフルするようなスライドショーとして浮かぶ記憶」ということへ向かうだろうなと。