The Devil Comes to Orekhovo(悪魔がオレホヴォにやってくる)(2004)/David Benioff(1970~)を湯槽の中で繰り返して辿る。描写は克明で固有でありながら普遍の線上を保つ。このバランス感覚が非常に大切になる。こうした新しい倫理的な構想(つまらないギミックや特殊な捏造・レトリックを削除切り捨てる意志化)が今後は主流となるだろうと感心する。寓話・物語(ストーリー)という概念も変わっていくだろう。加えてタルコフスキーを想い起こさせるような情景が美しく際立つのは、作家の力であり、おそらく教養の含蓄の示すところ。サポートするバックグラウンドの環境(そのセンスを認める社会)も知性の滲みに依ってこそ成立すること然り。突出と協同開発との差異を充分認識しなければいけない。
人間の生そのものの意味や動機・根拠を浅薄に慌ててなんとか説明しようとすると、そのほとんどが嘘になることを直観している人間だけが、こうした構想の地平に辿り着けるのだろう。(最近の陰惨な事件報道の性善説の弁証法は情けないほど曖昧であり、而も断定的であるので、こうした作品が異彩を放つことになる)
Alexandre Aja(1978~)が25歳という若さで制作したメジャーデビュー作であるHigh Tension(2003)も、親の七光りという環境もあるだろうけれど、日本の趣味的な土壷に陥っている同世代、似た環境での生成作品と比べると、知的でクリエイティブな外堀(カメラ・脚本・演出)がきっちりとと掘られていた。次が可能性として展望できるか、作家の意志(野心)が作品に内在しているかが重要。
ここで、いささかメジャー衰退の翳りのある韓国での映画環境を引き合いに出し併置すると、一層に、映画監督も脚本家(小説家)も、トータルな意味での芸術家として認めることができない社会土壌が、我国には蔓延していることが鮮明になる。つまらないTV番組にイニシアティブを渡し、技術屋程度にしか扱ってきていないこれまでの代償は大きい。特に若い同世代知的差異は、決定的な「倫理」の欠落によって広がる。それはそれで仕方ないが、ヤバいなと切り抜ける希少な芽を擁護するシステムは無いので、淘汰に任すしかない。
菊地凛子の助演女優賞ノミネートで騒ぐ最近のニュースでは、イニャリトゥ監督の作品手法解析が一切報道されない。
国立新美術館 : 日本の表現力~2/4
ortho-Aberration.prototype, Global Bearing/Norimichi Hirakawa(1982~)
vector::scan / Ryota Kuwakubo(1971~)