mamiya7のフィルムを用意してこなかったので、市内の店を回るが、数年前にはあった筈の120フィルムが無い。畳んだ店舗もあり、残った店もデジタル対応と様変わりしており、危機感を感じながら車を走らせる。駅からインターへ真っすぐ繋ぐ道沿いに大型の専門店を見つけ、ここは大丈夫だろうと飛び込むが、220はない。120も数える程しか置いていない。時代の波とは恐ろしいと実感する。これでいいのかしら? 焦りもあり、普段は使わないネガを購入し、一本撮影。velvia100x5,provia400X,Reala100,pro400,superG100x2すべて120購入。今回の撮影はXLH1が重かったので、静止画撮影はMamiya7と、Pentax Optio750zのみ。だがこの優れたコンパクトデジカメの持参の理由は、ワタシにとって最年長の叔父(1915~)、父親(1930~)にとっては一回り以上歳の離れた父親代わりの老いた兄が、先日脚の根元を骨折して大手術となり、身の回りの世話をする担当の末っ子の父親が、こちらの母親の癌細胞転移検査などにも意識を奪われ、本人自身が患う暇もない剣呑な日々を過ごしており、いろいろな意味を加えさせ使って貰おうと考えた。使い方を簡単に教えると、早速庭の花などを嬉しそうに撮影していた。振り返ってみれば、記憶の中にも写真は溢れており、当時は高価だったろう二眼レフなどでこちらの幼いころが多く残っている。現在が見えないような流れの中で、写真は時に今を照らし自省を促すことにもなるし、生きる記録として現在を実感することにもなる。メモリーには500枚程撮影の記録ができるから、年末までに撮りまくりんさいと、暗に反復を強要し、プリントアウトしたマニュアルと一緒に父親に渡した。母親も操作を教えてと言ってきたので、こちらも持参した甲斐がある。
この街でのほほんと生きていた頃は仕事場の近くであったから、何度も足を運んだ菜々というラーメン屋にて昼を採る。この店は懐かしいというより、本当に甘い。ひとつの変わらぬ味の意匠で勝負を続ける寡黙なご主人には頭が下がる。戻る時は必ず暖簾をくぐらせていただきます。
持ち込んだ仕事をしてから、風呂に入ったまま、あまり考えずにシリーズ3作目「巨人たちの星」を読む。
流石にこちらは朝夕寒いが、咳は止まった。再開したランニングのおかげか。
年賀状のプリントアウトを仰せつかって、家族のものを出力したあとで、こちらも今のうちにと制作する。息災を伝えるだけのものでよいので、仕事優先に特化する。
コンビニで、確かgarioが面白かったと言っていたと、tigerland(2000)/Joel Schumacher(1939~)¥999購入。監督の年齢の割には、撮影等悪くないが、作品は役者に頼りすぎている。脚本も主人公にスポットをあてすぎておりつまらない。体制に反抗するといった「自由」のあり方が古い。ちらっと見えるColin Farrellの、オリジナルの繊細さが普遍を引き寄せてはいるけれども。ほんのちらっと。
ベトナムを描くものが今後現れるとしたら、キャラの突出しない、徹底的な史実(時間と空間)の再現しかないのではないか。ある任意の時間と空間を創出する際に肝心なのは、まず時空が歪まずに現れ、現在に都合良く投影解釈せずに、間違って在った状態であっても、そのままとことんリアルであることと、そこに生きるモノが、こちらの感情移入することを拒むような事実=「存在」として描かれ、稚拙な決断も、そのまま曲折せずに真っすぐ無邪気に繰り返されるべきだ。
未来という仮想創出は、現在からの投影で構築するしかないが、過去は瞬間瞬間がそのまま眠っているようなものだ。宝の山なのかもしれない。
長女に、星を継ぐもの、ガニメデの優しい巨人、巨人たちの星を、amazonから送付。彼女には、その場凌ぎの言い訳を都度繰り返すような喋りで身を立てるような仕事には就いてほしくないものだ。アンテナを開いたまま、よいものを吸収し、寡黙に指先でモノをつくるのが一番。とこれは親ばか。