壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗たらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。ー
とはじまる、「意味の変容」寓話の実現/森敦の頁に残る、珈琲の染みと共にある拙い鉛筆の書き込み(蠱惑、冀い)から、モノ派の奇跡的な幾つかの光景(突風)と、韓国の野投(デジャヴュ)の雪原に残した痕跡が巡ると同時に、アルテフォーベラのコンテクストを切断する斧に触れたあの時がふいに指先に蘇る。青い疑いを抱えてボイス(ヨゼフ・ボイス)の放置に通い詰め、ゲルマンの血肉は、やはりチベットあたりで途切れると「悲劇」を持ち出していた。ユーラシアの東の果ての(笹の葉のような形の)固有(あるいは切れ味)を侘しく憶った。(誤解される表現ではあるが、世紀末では、いずれも敗者の翳りを纏っていた)随分長い間、棚に仕舞い込んでいたようだ。
今は、目の前の出来事や印象からの連鎖が新しい(瑞々しい)形を作り上げるのだという錯覚を、卑しい(未来のない)短絡と切り捨てることは出来る。危うい痛み(これは無痛というパラドクスも含む)の罠(インテリジェンス)は無数に散らばっているので(おかげで)、少々の差異は平坦になるから、淵(のようなもの。あるいはブラックホール)がこれまでにない深さで顕われ、引用の反復が擂り鉢になって構わずに匂いたつけれども、降り立つ深みへ「飛び降りる瞬間」をと、拾った枝でと黒い意志が芽生えるに任せるか。「巫女と固有名」という括りの、タイムトラベルとは、あの時は考えもしなかった。

任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つのの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。 ー

「してみると、きみはリアリズムは謂わば倍率一倍で、
外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという。
と考えようとしてるんだな。それにしても、倍率一倍の望遠鏡がつくられるまで、どうして七十年もかかったのだろう」


ここでは内部と外部が反転して、内部が外部に実現されている。そこにはものを小さく感じさせる枠など必要ないから、さまたげられることもなく実現と現実が接続する。きみの横にあるのがそれだ。もう倍率一・二五倍と称する倍率一倍なのではない。正真正銘の倍率一倍だ。豆電球にスイッチを入れた。むろん、片眼をつむることはない。そのままで見たまえ。

死者の眼/森敦「意味の変容」より抜粋
独り言(呟き)こそ、抱きしめるべきかな。