藍画廊で開催されている高橋美羽女史個展に伺い、撮影(talking heads)を行う。Garioが自作レフ板を持参してくれたが、ギャラリーの光は微妙。でも、レフ板は携帯性さえ改良すれば非常に便利と撮影画像を眺め実感。作家の話を聴きながらこちらは寡黙にレンズを覗いたままインタビュアーに展開を任せる。20代女性作家に顕著に見られるある種この国特有の時代傾向に気づき、取材後皆でランチを摂った中国大陸料理 過門香 銀座店にて、昨日の夕方から睡眠をとらずに出かけた睡眠不足覚醒で精神がハイになっていたせいか、独り饒舌になり稚拙な所見を喋りすぎた。店の照明が手伝って夜の酒場に居るような気分になった。最近のランニングと食事の傾向も其処に加わり、食欲を喪失し、申し分のない味の料理にあまり箸が伸びず。身体に余裕がある際に、もう一度訪れたい店。ランチは価格も安く、一口いただいたデザートの杏仁豆腐は濃厚で抜群に美味しい。
言葉自体の、安定的な静止と、行間に流れ始める時間のイリュージョンとのパラドクスの提示が見事なのだと再発見した「失われた時を求めて」/プルースト下巻「囚われの女」冒頭を読み始めたところで、送り届き床に重ねたままの80冊の上に放り投げていた。続きを読み始める前に、この塊を一体何処へ収納するのかを全く考えていなかったので、休日はこれを考えよう(収納してしまおうという意気地は無い)と脱力して「眠り込んでしまってもよい何も無い一日」をと願ったのだが、80冊の行方を放り出し調子に乗って、朝、昼、夜と短いランニングを重ねてしまい、暗くなってから右膝の内側の辺りに人差し指先位の痛みを抱えることになった。成程これがアスリートらの云う「故障」という感じなのか。10日程度のケチな走りで「故障」か。結局、疼く甘いような痛みを紛らわせる為に深夜まで5時間、取材撮影の編集を行い、「何も無い休日」は繰り越しとなった。夢など見なかった3時間程の睡眠が朝の5時前に終わり、6時前に走り出すと、やはり痛みはまだ在ったが、朝の走ることの気持ちよさが初めて身体を吹き抜けた。走りながら、取材後Garioと話したアッジェの歩行が浮かび、彼は重い器機を背負いながら走りはしなかっただろうが、アッジェの眼差しが街路の辻を幾度か捉え、Garioに諭すように呟いていた「映像には時間が加わるからな」という言葉の中心のようなモノを、吸い込む酸素に与えるのだった。


Eugene Atget(1856~1927):Wikipedia, at ICP
後期学期がはじまった学校への通勤往復の地下鉄にて「辻」/古井由吉再読。最近のこちらの享受や環境状況も読感に加わり、ヒトの性差の「斥力」(互いに遠ざけようとする力)が、男と女という形態存在を煽ることを再確認するが、成熟するエロティックで広大な荒野を言葉にて与えてくれる古井由吉に脱帽感謝。さてこちらはと、帰り道に溜め込んだネガフィルムの現像を受け取り、ここ2、3ヶ月のフィルムカメラの結果を眺めると、これまでよりもやや明確になった顕われが若干数あり、オフィスに戻りフィルムスキャンしつつ、静止画像にこそ、なるべく明るい80mmから150mm程度の望遠の併用が必要と知る。