あらゆる日常の言語感言語化につきまとう違和感の累積がゼロに戻る崩壊は余程のことが無い限り訪れないし、そうなったほうが幾分気楽な気もする。
延々と泥炭のように地下へ沈着するその表層で差異にすぎないという楽観の溜息を乾燥を防ぐ効果はあるのかわからないがまた置いてから地中に長く手を突っ込んでいる。これは夢ではなく現実体感のメタファーであるけれども辺りは鴻大な荒地であることは相変わらない。世界獲得への気概自体がある種の悲劇性、不幸であるという直観を二十代半ばに幻視していたが、強ち間違っていなかったと最近になって考える。幸せとは弛緩に結ばれた放棄ともいえる。