結婚披露宴と葬式と核実験が同じ日に重なった。
20世紀全記録、ヨゼフ・ボイス、フランス現代美術、フランシス・ベーコン、写真集、思想関連等、大きめで厚い書籍を主に箱に詰めて送付したが、独りでは持ち上げられない重さとなった。東京へ戻る新幹線では、自宅を出る際にふと目に留まった「そして考」室井光広を読む。文体に特徴があり、作家独特の論理で展開する小説なので、面白いのだがやや疲れる。「そして」という接続詞は、つまり 、。であり、関係であり、無関係の境界であるということ。「冷血」は、日曜日の夜中読了。大宮の辺りで瞼に疲れを感じて本を閉じ、月島のランニングコース等をさてどうしようと巡らせた。
二日前酒の席で、「冷血」から辿った筈の、プルースト「失われた時を求めて」の著者名と作品名を瞬間喪失していた自身に慌てて、読み込んでいた筈のディティールを確かめるつもりで書棚のものを捲ったが、ピンポイントで描写部分が引っかからず、やや醒めたような再読を促されていた。カポーティの「冷血」は、作家の数年かけて取り組んだという構想とその実現の形として、創作メソッドが非常に参考になった。
東京駅南口4番から乗る都営バスの中では、日々の食事を記録しようかとこれもぼんやり浮かべていたが、オフィスに戻って開始した仕事の後、Takenouchiとのメッセで話題にした、Lifestyle of health and sustainability(ロハス)「健康と持続可能な社会に配慮したライフスタイル」という健全指向の罠にこちらも陥っているのかと、いらぬ不安を弄ぶ。
深夜迄溜まった仕事を続けた後、カウチでHD録画していた24を朝迄観る。最近こうした長い映像物語が映画と規模を似せて構想されるが、観客の興味を長い時間引き止める為に、物語自体が刹那的で頼りない。幾度かあり得ない設定に失笑する。眠気が降りたままランニングというほど力の残っていない身体で埠頭の散歩をしながら、この界隈の昼夜関係なく働くヒト達を躱して、未熟に走るコトがやや恥ずかしいなと思う。
大江戸博物館で荒木経惟の「子供もくるのでハダカはなしよ」という個展が開催されるのでスケジュール調整。近所のコンビニではネガフィルムの現像を扱わなくなり不便。
XBOX360とGhost Recon🙁official)を注文。けれども試す時間等無いわな。