週末、ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」を読みながらnakamuraがオフィスに遊びに来たので、仕事を放り出した。と仕事の遅れをヒトのせいにする。心機一転の青年の「これから」という時間を羨ましく感じる。そういえば自身も同じ年齢の頃、闇雲で無謀出鱈目な読書に浸って過ごしていたなと、幾つかの書籍を薦める。
休日の午後の会議の後、雨の中オフィスに戻り、構想中途にあるプランに取りかかる。設計図を仕上げて、完成のビジョンを目の前に置いてから、素材を準備し組み立てるといった手法をとらないので、作業が構想自体となって回転するような時間となり、これはこちらの数十年身に染み込んだバイアスというか、人間の癖のようなものだと割り切って久しい。だから、「こういうもの」と、最初にイメージを提示出来るような取り組みは、面白くないし、関わりたくない。いつまでたっても仕上がらないというリスクを背負うけれども、こうした構想自体の運動に身体とココロが惹き寄せられ、発作的な偶然を呼び込み、あるいはまた、イバラの道のような反復に落ち込んでも、構想という運動も意欲も萎えないものだ。
いずれモノを創るヒトは、固有であることと普遍の両方を広く抱えるものだから、「矮小な自身を大きく超えざるを得ない」という青臭い自虐を経て、どこかに辿り着こうともがくことで成熟するなどと謂われるが、こちらのなんとも怪しい稚拙な足取りの生も、意識が漲る持続の手法が身近に在ることだけを幸いと考えればよいと思うようになった。構想自体という今此処という現在が、「途方も無い果て」であり、些細な決定が「私と云う倫理」に真っすぐに接続されているのだから、目の前の出来事への決心を与えることに専念すればよろしいわけだ。