いつの間にかとても良い季節になっているじゃないかと自転車に乗って、用事に出かける度に、折角の季節を無為に過ごしているなと反省するけれども、季節を謳歌する立場にはまだ立てぬらしい。指先の脂を洗う時に手の甲をじっくりと洗うと、其処に落ちる視線が記憶の束のような重さになってぼたんぼたんと落ちる。洗うコトの時間が広がって取り留めがなくなる。湿度と気温に苦しんだ盛夏には、むしろ手に滲んだ汗など気にも止めなかったのに、健やかな大気には、身体の見落としていた不具合をくっきりさせる効果もあるのだろうか?
無性に蕎麦が喰いたくなってこの島を巡ったが、近くには店が無く、離れた暖簾をくぐった店のせいろ蕎麦は味が薄かった。
トイレに座り込んで週刊誌や単庫を捲る時間が長くなったぞと、自分が卑しいものに成り下がった諦めの心地が、かつては投げやりな強がりとして、あるいはユーモアとして抱えても重くなかったのだが、最近は腰にへばりついて離れない。
カヌーに乗って読書をする誰かさんを憶いだし、あるいはまた、山を登る吐息を夢想して、自転車を転がして皮膚の下が沸騰するような脆弱な肉体の衰えを、日に日に遠くへ放るように眺めているので、目つきが深く重くなるわけだ。
ではと、キャメラの前に座って独り言をDV録画していみようかと洒落たが、言葉が喉に詰まった。
ホテル・ルワンダを観よう。


ホテル・ルワンダの唯一の救いはラストのクレジットロールで流れた楽曲のみ。こうした出来事は事実には違いないだろうが、例えば民兵や軍や警察のお粗末なリアリティーが全てを台無しにする。役者は頑張って与えられた立場を演じているけれども、そういうことではない。状況や環境、時代等知らぬ者が眺める時、現実性がフラットに真摯に語られていないと部分が極端に突出して茶番になる。これは単に監督の力量が足りないということ。脚本はどうでれ、撮影のプロットの構築が稚拙すぎた。