場所は、眺めることが特化されている例えば静かなギャラリー・美術館であってもいい。いつだったか使わせていただいたことがある大きな酒蔵でもよい。これが湖や森など自然を前にしていると、眼差しの行方の力が豊穣複雑な自然の輪郭に吸い取られる恐れがある。つまり、対比として人間が切り取られてしまう。小さな顎を幾分引き自身の足元から数メートル先斜め地に虚ろな眼差しを投げて静止している人がいる。
そもそもこの人間を考えようというわけだった。
年齢や、性別、固有名など、特殊でなく固有でありつつ普遍的でなければいけない。然し、問題は、この立ち尽くす仕草の動機であり、そこに至った経緯であり、放心と眺めが同居する空間の質であると考えた。
スポーツ観戦のような熱狂も、ゲームや賭博のような熱中も其処では失われており、その喪失の原因自体となる空間・場所の性格を、はじまりから構想しなければいけなかった。
まだ十全に身体の機能を果たしていない女性特有の身体とココロの矛盾する境界の時期を維持する健気さも、普遍のひとつとして加えるべきだったし、あるいは疲弊の果ての投げやりも在るべきだった。つまり、健全で前向きな新陳代謝の激しい人間の活動から、ある種の静止を導こうというわけだ。これが妊婦であると眼差しは対象へ届かないし、活発な活動の運動体であると、眼差しは内向する。外へただ無防備に開かれているような眼差しを前提とし、それがつまり「机」となった。この「机」は、モノを書いたり食事をするための道具ではなく、俯いた視線上に存在するナニモノかであり、その為の高さと構造、ディティールを持つべきで、これは逆説として眼差しを受け止めてはいけない。
井戸を覗き込むような好奇心を煽って立ち尽くさないように、静かな移動を促す「机」併置が考えられた。