平野啓一郎「顔のない裸体たち」は結局、島田雅彦等の世代に感じていた迷妄感がキレイに取り払われ(おそらくこの払拭は苦労しただろう)、いたって正常、正当な存在性を誇ってよい現代的な倫理で構築された様々な読み替えが可能(誤読でもよい)な作品と得心した。書き手のスタンスの、現在のインフラで当たり前となった情報入手メソドから来る所謂「神の視点」に、無理とこじつけと嫌みが無いことも幸いしているが、これはおそらく作家の狙いだろう。至る所で普遍が導きだされる可能性があり、特殊と普遍が翻る疼き自体が面白い。隠喩暗喩的な不透明さを削除すると、こおうもまあすっきりと明快な世界が顕われるのだという、今後現れる小説作品の、小説家の態度の手本になるのではないか。これは例えば、The Coen Brothers、Jim Jarmusch、Quentin Tarantinoなどの、表現に顕われた「余計」の断ち切り方に似ている。
続けてというより同時に手にして平行して捲り始めた梅田望夫「ウェブ進化論」は、当初タイトルの「進化」という言葉自体おそろしく古臭い香りが漂い、捲って書店の棚に戻したが、認識のヘタリを修正するには役立つだろうと購入し読み始めていた。2003より頭角を顕著にしたグーグルの世界戦略の構造説明のガイドのようなものだが、数字を追うだけで成る程と頷くことができる。
情報世界に於いては、インフラかコンテンツかというスタンスが、この国の現況では曖昧であるけれども、グーグルアースなどのご挨拶(こういうことやるのでよろしく)から垣間みるコンテンツ生成発電所を、数十万のPC構築、明晰な頭脳の確保によって、アンチプロダクト開発を明言し、世界政府データベースを作るような途轍も無いコンセプトは、こちらも以前より畏怖する気分で眺めていたので、例えば「言語学」がグーグルによって脱構築され、世界言語翻訳ツールを検索エンジンにバンドルする近い将来は、寧ろ個々の言語回帰を促す予想も簡単に出来るなど、この本を刺激的に捉えることもできる。
50代以降のPCやネットに馴染めない世代が世界から実質的に消滅する2030頃には、おそらくツールとしてのネットデータベース構築が一応の完成をみるだろうことも頷いて辿った。
情報への眺めのクオリティーが、そのスピードとディティールに豊かさを持つ時、人間の意識にはそれこそ「神の視線」の気配が濃厚に充満し、経済のシステム自体翻るかもしれないし、善と悪と**といった三項の魅力的な斥力が生成発動するかもしれぬ。この斥力を、ワタシは漠然とマツダのロータリーエンジンの形態を当てはめていた。