通勤の地下鉄で、「郊外へ」堀江敏幸を再読はじめる。作者があとがきで、
ー『郊外へ』は、だから大切な記憶のつまった箱のようなものだ。ー
と、記すように、虚構を使った、認識や印象、享受の引き出しであり、膨大なデータのリストアップともとれる。こうした仕掛けは、読み物としても勿論刺激的だが、ほぼ同じ頃、フランスの隣にて彷徨っていたワタシも、この冒頭ででてくるエピソードと時を同じくして、ドイツ語の中古インクテープ式タイプライターを購入。おそらく隣の都市でしきりに指を深く押し込みながらタイピングしていた。データベースとして、辞書のように使わせていただくことにする。
記憶は、こうした「箱」として見えるモノ、残るモノにしないと、淡く消えるから注意しないといけない。記憶を使おうと、まだ実家にあるタイプライターを送って欲しいと電話する。
アマゾンから届いた「顔のない裸体たち」平野啓一郎を、湯槽で捲る。
俗悪なテーマを淡々と説明描写するという、いわば手法が最初に示されるが、これまでの作家の作品を読み続けている者としては、作家の言葉の列挙(所謂文体)に仄かに浮かぶ、空間の深さ、時間的な静けさが、喪失していることが残念。まあ、これはこれでいいか。というより、作家を観念で縛り付けるのは、ファッショだな。
悪くないのは、大きな社会の罠(良し悪しではない)が見えながら、観念的な装飾構築を捨てて(あるいは意識的に削除し)、描写素材がありふれていて美的趣味的ではないということ。これは送り手の大切な倫理的なスタンスである。