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自らを「小説家」に仕立てあげねばならない新人たちは、そのためのさまざまな戦略を考え、何か一つの特権的な根拠をねつ造する。それは「若さ」だったり「体験」だったり「感性」だったりするだろう。その手口は恥ずかしいほど透けてみえる。が、それはべつに”倫理的”に非難されるべきではなく、”技術的”に非難されるべき性質のものだ。
たとえば、新しい「感性」などというものはない、それは新しいテクノロジーにすぎないと考えてみたらどうなのか。ひとびとが感性とか感覚といった言葉で語りたがるものは、きまってラジオとか無声映画、蓄音機といったテクノロジーと結びついている。初期の「新感覚派」はそれを明瞭に自覚していたが、いつのまにか感性(感覚・感受性)はテクノロジーと対立する根源的な何かを意味するようになり、「自己」にとってかわる主体のようにさえみなされている。だが、ビートルズらに六十年代の「感性」を見出して物語る位なら、電気ギターについて考えたよいし、新しい「感性」について物語る位なら、シンセサイザーについて考察した方がましである。(ある種の新人の作品はいわば”シンセサイズ”されている)
ー凡庸なるもの / 差異としての場所 / 柄谷行人(1983)より抜粋
断片をまき散らす排泄は趣味的というより生理的な代謝感をともない苦もなく楽だが、それら排泄物を再考し置かれる場所を新たに組み替える再構成というより再配置を行うことは、復元された光景の考古学のような俯瞰を促し、当初発作的な衝動に過ぎなかった排泄断片の本来的な意味が、配置の相対的な位置の関係性によって新しく生み出されることになる。
配置のテクノロジーとして、この国のもの派の作家たちの作品を捲り、これら統合構成しない決心のような放置を可能性の主軸とした彼等の技術(テクノロジー)として再度眺めると、成る程青年期に自身が傾倒した理由に得心する。享受が時代とともに如何様にも変容する可能性としてこのテクノロジーはまだ有効だ。
どちらかというと、内省的ロマン的な自省の辿々しい記述が排泄に終わっている絵描きらのそれと比べると、比較的もの派は理論的な言説を遺している。この言説は放置決定後、見出された光景の描写と解釈することもできる。演繹と帰納がはじまりと終了によってパラドクスを含みながらエッセイされるのは、今となれば何も不思議ではない。断片の統合は断片を殺す行為であると知る者は、統合への批判としてまず放置の光景を幻視し、その光景から見出される可能性の全てを掬い摂る理論を、再度生理的な断片ではないと倫理的な態度で放置して、可能性の光景を切り開く仕草(言説)を残す。だから彼等の光景(テクノロジー)は二重に強化されたオープンソースとして現在も機能性に富んでいる。
夏の終わりに新たに見出した光景から、同じような意味合いで言語を経巡る時間を過ごすことになり、目の前に再配置された断片は勝手に動き始め、自在な関係をこちらの恣意を超えた唐突さで孕みはじめた。これは、カメラを覗いた時に抱いた予感に符合し、粒子の雲に指を差し込んで掻き回し目を細めた彼方にも繋がっている。今の目の前の状況がどこかで見たものに酷似していると記憶を探ると、何度もTVや映画で眺めた、現場検証の夥しい資料がピンで貼られた刑事の部屋の壁だと気がついた。断片は地図となり、歩みを促すマップとなって、探求歩行の背を押すわけだ。だが、中には機能しない断片もあり、それは何かと確かめると、自己完結したねつ造によって特定の関係可能性以外を拒否する姿をしているので、配置から取り除き廃棄した。
lake memo
ピーク(頂き)があり、スロープがあると速度が変化して体感も変わり、それはそれで牽引する要素として有効だが凡庸であり、そのリズムに引きづり回される。いっそ、平坦にと願う気持ちが生まれるのを数十時間時間迷うまま、放置はできないとリンクをはずす。これはテクノロジーだからと頷くことにした。平坦を選び取る決定は、白黒の静止画像にある。
「差異としての場所」の獰猛な感触を維持したいと「反文学」を移動中捲る。地上に出てから、静止画像は光景か?と浮かんで、ひとつのフラットな画像を言語描写しつつ歩くと、あっと歩行が止まった。
言葉は関係に引きずられて光景を失う。光景が先導するあるいは、絶えず光景がなければいけない。言葉は勝手に弁明を重ね、説明に終始する光の差し込まない穴に落ち込むことになるというわけだ。