一回り歳の違う三十代の杜甫と四十代の李白は会って酒を呑んだ。「はなしの判る人間との惜別を惜しむ」酒の席が、李白の詩に残っている。彼らはそれ以降会っていない。なぜか車の中で父親に話しかけていた。内心五十代が八十代の人間に、この21世紀に於いて8世紀の話しをしている。ハンドルを回す隙間に、考えるでもなくやや健やかに思ったものだ。
息子も気にいった父親の、篆書でのぞんだ杜甫の登高は、まだ病院にいた父親の指示で、晩夏、町の催しの会に展示された。これまではどちらかというと説教臭い抹香臭いお経のような教示的な時代錯誤の標語のような書を、まあ自らの文脈の教師としての自明な立場の踏まえからか「偉そうに」書いていたことを、彼の人生を受け止めるつもりもない息子は、あっさりダサイと批判して、漢詩を書いてみたらと薦めていた。
新漢詩紀行の石川忠久(桜美林大学名誉教授、二松学舎大学名誉教授・顧問、(財)斯文会理事長、全国漢文教育学会会長、全日本漢詩連盟会長)の解説の、時離れたような独りの時間、まるで学生時分の愛すべき師の声音色に一切を委ねるような充足を都度抱き、録画を幾度も眺めては腐った気分をゴミ出しする契機のひとつとして、この一年か二年過ごしている。番組のオープニングの王子江 (1958~) も、加藤剛のナレーションもよいけれど、なにより松岡洋子 (1954~) のナレーションが、この国の母系の象徴の声と聴こえる。

意味と義務と必然といった切迫を一笑し、偽りない愉悦の土へ立たせた要因素材のひとつともなったかなと石川忠久の笑顔をハンドルの上に浮かべつつ、早朝の病院へ車を横付けし、書店でみつけたよとTom Rob Smith (1979~) 三部作の完結上下を即座に購入した妹に、ちょっとよこせと頭を下げたが上を奪って最初は待合室の座り心地の悪い長椅子で捲りはじめた。込み合ってくる待合室は光も弱い。抑制の無い囁きが狩り場の矢のように飛び交って渦巻き響く場所から駐車場の車の中へ逃れるようにして戻り、秋の日差しの下捲りはじめた。

経過は順調。25日の次回検査予約を済ませた父親を乗せたまま郵便局で企画関係者にDM送付し、自宅へ送り届けてから、信大教育学部、木村氏の研究室にDMを届け、喧しい大学のネットワーク端末を弄って企画への対応をお願いする。戻って家族で父親の三ヶ月ぶりのラーメンランチに付き合う。

偽り無い愉悦とはまだ言い難いのは、生活への組み込みが反復成就されていないからだが、それでも、いたって無理の無い川の流れのようなジネン(自然)の思考に沿って数日行っているドローイングの時間の絵面を眺めて振り返り、中には10年前の自らの刻印の真上にはじめたものもあり、それも含めて、この身から出た吐息のようなものだと府に落ちながら、指先は書棚に伸びた。検証と相対俯瞰の癖を戒めようとは思わなかった。検証は縁の変色もみられるこれまでの出力画像全てにも及んだ。
横に置いた木島平の工房で手に入れた無垢なままの小さな手漉き和紙四枚を、これにこの秋の辿りのカタチが現れるかなと指で撫でる。