昼間の仕事を引きずって夜中まで沼の底を探るのは、森の中では理不尽不毛であるとカラダでわかってきた。友人がくれば朝の4時まで酒は呑むが、平常11時になれば健やかな眠気も降りるようになった。
4時に目覚め、6時まで 下に降りてカウチに横になってagent 6 上を読み終えてから朝風呂に入り、下を貸してくれとメールをしてから、気づけば小雨の中パーカーを目深に被り走り出していた。

なんだかんだと言い訳をみつけては走ることから逃げていたが、いざ走り始めればそのきっかけを忘れるほど何気ない生活の流れなのだと、あっけないような動きにも感じた。しかし、あまりに久しぶりの走りは、途端に苦しくなる。けれども、喘ぎの中に素晴らしい爽快が巡る。

湿地まで下って回ろうかと思ったが、継続に引導を渡すことが第一であり、無理をする意味もないのでつつじヶ原中央通りを折れずに真直ぐ行こうと決めて、坂道の途中ではあっさり諦めて歩き呼吸を深く何度も吸い込んで、またゆっくり走り出していた。
マップで確かめたとおり、中央通りは行き止まりで、10丁目の先は、シーズンしか利用されない別荘が一軒しかなかったが、道は荒れた風でもなく、自治体によって丁寧に管理されている。唐松の中の一本の広葉樹の下、道に落ちているその葉の色彩が木漏れ日のようでもあり、獣の走り抜けた痕跡のようでもあり。小雨はやがて止み、樹々の先端は風で大きく揺られて葉は一層落ちたが、全てが好ましい。
アスファルトに散りつつ積もりつつある赤茶色の唐松の針落葉の上を走ることを、こういうことだったかと、苦しさを喘ぐ深く吸い込む呼気とともに躯の中に入れる。
戻った入り口で躯を折って激しい呼吸を下に吐きながら、走ってから風呂に入ればよかったと汗を拭いつつ、走れば活性が漲りむしろ風呂等入りたくなくなるなと理解する。
昨夜のトマトソースの残りを温め、パスタを茹でて朝飯を摂りつつ、週の基本をこしらえてせいぜい二日ほどはプールに行かねばと躯の強欲を巡らせる。

数日前近所の方が冬に備えて走っていると聞いた時、なるほどそういうものかと、まだ知らない音の絶える白い季節に対して、何の準備もない自分を戒める気持ちが疼いたこともある。
70を超えても只管毎日走り続ける札幌の叔父の、躯の維持の次元を超えてしまったような老年の過ごし方にも、憶いだしては都度促される。
折れるわけにはいかない今を生き抜くには、肉体の鍛錬が必要と理解する頭を躯の節々に快楽として植えることが肝心。そのために此所に居るようなものだ。
散歩のような走りにすっと流れることができたのは、晩夏の肉体酷使で背中に張った傷みが、そういえば立ち消えている。痛み止めで呑んでいたウヰスキーの助けがいらなくなったせいもある。