気づけば終日ミルクレープをこしらえているような作業を続け、真横からその層を眺めて、どれを表層に戻すかなどと意味のない眉間の混乱に目眩する。
仕事と生活が、構造的に幾層にも分離しているわけではないが、関わりのそれぞれが自立したかたちのコントロールを必要とするので、絶えず層の微動、揺らぎ、関係、速度などを、底意地の悪い監獄の看守ごとく見張らねばならない。時に繊細を欠くとふりだしにもどる虞れも多々ある。時に現実原理から浮遊する観念に慌てることもある。いずれにしろ全て自己責任であるには違いない。
乗り切るコツは、多分、不可能を抱え込まないという単純であるから、出来ることをしながら、出来ない事をきっぱり排除する意気地をその歩みに与えればよい。簡単ではないけれども。
夢の中で、路上の人の動きを幾度も停止させ、もう一度と異なった行為を促す立場にいて、いい加減になにもしないという仕草はできないのかと、若干声を大きくしている自分に驚いていた。水上勉と中上健次の対談にやはり流れていた「耕し」の行為が、スタイル云々ではないと当初頷いていたが、終わりのほうでいかにも言説的な恣意と五月蝿く感じたのは、なるべくはやく石の上に座ってしまいたいという祈りにこちらが移ったからだったが、その感触が、「なにもしない」という憧れを呼んだと、目覚めてから思っていた。
「説明的な描写」という矛盾(ー見えるならばそんなものはいらないー)の言語的な、観念的な束縛は、関係の社会で生きる上ではむしろ勇んでかき寄せねばいけないらしいが、これも、なるべくはやく石(ときには浮く)の上に座って、振り払いたいわい。