数字の頓着の終わりがみえたので、抑圧が解け、午後もまだ明るい時分から酒と肴を買いに出かけ、わざわざ生臭い柳葉魚やら栄螺と、枝豆と揚げ豆腐と日本酒を仕入れて、こちらにしては長い事、堪えていた落語の録画の、橘家圓蔵「寝床」と、桂ざこば「肝つぶし」を、声を出して笑いながら酒を飲む。
話芸とタイトルのつけられた、とんでもない放映時間の録画だが、客の笑いに耳を澄ますと、そこにこちらと同調する姿のみえない受け手の、この国のゆったりと耳を澄ます成熟文脈の、豊穣な海の波のような過去から未来への時間の満ち引きのようなものが、こちらにも流れ込んで、噺家の培われた、時に言葉の綻びのようなものが生き生きとして、どっと治癒のような笑いが吹き出るのだった。

お気に入りの唐詩選。続けて、場所を巡る放送番組として希有な輝きを誇る世界遺産100選から、モロッコ、アイト・ベン・ハドゥの集落。紀元前6世紀のイベリア半島地中海沿岸の岩絵。先住民の土の町、カサス・グランデスのパキメ遺跡。砂漠の真珠、ガダーミス旧市街。などなど、ためていたものを眺めて酒をすすめる。

現在遠い場所にそれぞれの形で生きながら場所を語り始めている希少な若い創作者たちを想いながら、せいぜいこちらも、場所と私ということを、何の衒いもなくこうだよと示すべきだよなと、酒の入った器を置いて、冷蔵庫の氷といろはすをグラスに入れ、最初はこのまま酔ってしまおうかという流れだったが、やはり追憶というより検証の過去の景色へ、眼差しは向いていく。

残りの栄螺を奥歯で噛み砕くというよりガムのようにいつまでもくちゃくちゃとさせて、裾花川の鑪の詳細は語られていない。戸隠の、あるいは鬼無里の文脈と末裔の物語は、寓話ではなく現実的な所作として現在存在するのだろうか。腹立たしい深沢七郎の姨捨の虚言が浮かび、そうじゃないでしょうと。峠を走るむさ苦しいが若い人間の草履を履いた足首と近親の闇と異系が見えてくる。

現在を説明するならば、文脈という場所を検証しなければ、すべて類型となり、同じような睦言となる。幻想が商品化された現代では、現実生活の現実感を、誰も触ろうとしない。これはウイルスか。否、しかし、容易いことではないからな。すっかり酔いは覚める。

タイミング良くベニオフ(卵をめぐる祖父の戦争:邦題 / City of Thieves )も届いたので、これで風呂での本を変えることができる。

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