勿論それなりの理由で数字を淡々と整理する、仕方のない不毛な時間を過ごしながら、それでも検証のひとつになるかもしれないと、自身のこれまでの併置音響を聴き続けていると、その拙い文脈からいくつかの認識の磨き出しがそれでもあった。
サンプリングとはつまりそこへフィジカルな採集本能が繋がり、獲物を探す遺伝子の記憶と同調しているということ。それを箱庭に並べても仕方のないことで、採った獲物は腹に収め養分を吸収したら糞として垂らし棄てる。コレクションとはこの糞までをガラスケースに収めることで、こちらはそういうスタンスではないということ。もうひとつは、無音にしろ音響にしろ「聴く」ためには、聴く為の「音響」が、あえて必要であるということ。現代社会の日常生活ではなにも聴こえない状態に等しいゆえ。
最近湯槽の中で、柄谷の初期論文集を捲りながら、成る程、坂本龍一と手法は同じだと頷いていた。
狩猟、採集の仕方は、いずれも獣じみているが、腹に収める仕方の提示に、言葉と音響の差異があるだけともいえる。


モンスーンの思想というものはあり、つまり気温や気象の変異の反復による波形環境の場では、「不変」が形而上(信仰)となりがちだ。辿り直すと、季節事、同じような傾向が繰り返され、それは、気温と場の変化(季節)によって、つまり雪が溶け花が咲く事の切断で、断片化されるしかない。例えば冬だけを繋げ直す再配置検証というものは、それなりに効果はあると睨んだ。

「北へ」とは、カムチャッカか、モンゴルか、否、北欧かもしれないなどと、このところ冬の気温に肖って辿ること(狩猟)の稚拙さが、なんだか健やかな精神であるという緩い実感はあるが、唐突に一ヶ月先の気温がめらめらと漂い、精神を病んだ人には特に厳しいらしい春の辛さが、こんな時ふいにこちらにもやってくるかもしれない。既に何十回も過ごして慣れてはいるが、明日はみえない。