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病に陥ったことが契機となり、それまで医者嫌いだった両親は病院通いを厭わなくなり、何かにつけて自身の不調を診察と薬に頼ることで、医療が身体の修復をする手段と慣れた。もう亡くなった祖父母の世代は、医療インフラや技術途上もあり、まだ意固地に医者嫌いを持続したまま痛みを堪えるようにして生を終えた人が大勢いた。娘らもなにかあれば医者に看てもらう。身体は修復すべき壊れる道具であり、そういう意味で外に位置している。時代の恩恵は、時に応じて「独我論」を排除する機能を併せ持つ。
芝刈りの作業員が熟練を使って短時間に奇麗に刈りとったさっぱりとした広がりを、多分作業員と同じ心地で立ち止まって眺めていると思った。
あなたはものをつくる人間だから特異な感覚を武器としているわけでしょうと、同じ世代のサラリーマンに話しかけられて、この時、否、見えるものが見え、聞こえる音が聴こえるといういたって正常な感覚維持がむしろ武器であり、芝刈りの作業員と同じだと返していた。帰り道、なかなか良い返答だったとひとり頷いて、「ものをつくる」という誤解の落差を転がし、こちらにしてみればこれもいわば「外」の営みであるから、構想やものづくりを密やかな「内」での仕事と考える人々とは、なかなか理解し合えないなと諦めるしかない。件のサラリーマンは、勿論納得しない。彼にしてみればものをつくる人間というのは特殊な才能ある異様な感覚に支えられていなければいけないわけだ。幾度も流れる逢瀬できない此岸と彼岸だ。
外の事象である理に従えば、「つくられたもの」への、私個人の寄せる想いなど、事象の現れの微小な一部分でしかない。そういう意味で、カメラに任せる写真は、芝刈り機と全く同じで、機能に応じた結果となる。それを、例えば、自称「美しい風景写真家」たちのように「美しく」歪曲し、小さな欲望(独我)を捏造添付する「内(自己表現らしい)」なる事象を、外へ向けられた手法で行う者の気持ちがしれない。肝心なのは、誰が何をしたかではなく、それは何であるのか? だからだ。
神楽歌舞伎、オペラ歌劇、演劇などは歴史において、外を位置を維持する為に、都度形式主義に陥らざるを得なかったのは、芝刈り機のように明快な手法が欠落していたからだろう。
昨今の音楽ライブイヴェントの集客システムの最も大切なのは、パフォーマーよりもパブリックアドレスであることも、同じことを示している。

「内と外」との頓着を軽やかに解決している、April Gornik (1953~)を数年ぶりに辿る。彼女にとって構想される景色は、捏造でありながら、現実に突き詰め寄ったものであるから、外の事象の貫禄が漂うのだろう。



sennheiser HD800 / 開放型。日産40台、限定5000台。$1400なり。視聴にいこうかしら。

深夜テレビ朝日のシネマエキスプレスで、Life Show (2002) / Huo Jianqi (1958~)を、懐かしく観る。時折挿入される空撮や街角によって、肖像を眺めるような緊迫が解かれ救われる。同世代の監督のせいか、以前よりもスクリプトに頷く回数が増えたようだった。重慶の旧市街路地吉慶街の屋台で、家族と現代のあるがままを、Höng Tao (1970~)が独りで体現するというシンプルな構造に好感が持てる。発音は大陸系だなやはり。