運搬考

 次元構造略式図の余白に放下した線から円(森の中の湖という幾何として)を立ち上げて目の前に置いたことが、忘れがちだった冥王星の軌道や衛星と地表図形、小惑星帯ケネスのアミノ酸、木星や金星のイメージと記憶を脳表に浮かばせ、夥しい量の火星探査画像を捲っていた。図から8千年に渡る「都市国家」の形骸観測への関心が再熱し、これを敬愛するロサティーの彫刻に再び重ねる。恣意の筆痕は、李白杜甫の酔いの回った溜息のような拙さでありながら「漢詩紀行」広瀬修子(1944~)、江守徹(1944~)のヴォイスのたゆたう響きまで遠くからこちらへ戻す。音響から声を紡ぎだすような工夫の時空を与える。イメージや認識や経験を運び寄せる機能としての「絵画」事象に、この歳になって驚いている。抑圧的な切迫に縛られているわけではないが、この機能はいかにも固有で個人的なものであることが少々残念だ。と、惑星や遺跡と奔放を解りやすく図解する別人を隣に置いた途端に、彼を批判する顔つきになる。つまり、知的に運搬されたイメージは水滴であっても、亡き祖母がしきりにこしらえていた手鞠であっても、どこかにつながる梯子と視えても構わないのであり、現在できる弁えを限界視界に並べるだけのことだが、これは「説明」ではない。視覚直裁として運搬される事象は、事象制約を突き抜けてもっと更に明晰(混沌がふくまれつつ)であるべき構造(距離を挟んで置いた「陰翳」と「舟」)は新しくその併置が浮かんでいる。