発見証明


 たとえばに過ぎませんが、詩における「発見」ということ。
或る作品が真に「発見」をなしたかどうかは、科学におけると同様に証明という客観が必要です。「発見」はそれ自体が客体との関係ですから、それを「発見」だと証しうるのが詩の論理だと思います。しかし、詩は最終的客体を見出すものなのか、そうは思わない人たちにとっては、別の基準が必要です。「詩史」がそれであり、もっと低次元では毎年の「回顧」がそれです。科学においても、発見の証明が難しい事態が起ります。しかしそこでは、つねに「発見の証明」が「発見」とセットになっている。私はそんな詩をいまも夢見ていますが。


 古典的な二元論とはなにを指すのかについては、「結果についての対比」や「概算としての対比」だと思えばいいと思います。「散文は歩行で、詩は舞踏」というようなもので、その対比自体は納得できそうですが、対比によって捨てられる領域が広すぎるのです。また、このような対比は、詩に根拠を与えてしまいすぎる。そこで、言語一般というものを基底に見て、その基底と散文とを対比する。あるいはその基底と詩とを対比する。すると、歩行が舞踏に映るところや、舞踏が歩行に戻るところも対象にできる。歩行しているだけの舞踏や、歩行が舞踏になる存在ということもありえますからね。

「詩への礎 ー真理 政治 歴史ー 」/ via wwalnuts 14 平出隆 より抜粋