由時置(追蹤考)

 厳密には追懐といった再び憶うこととは異なっている。つまり「未知」が放り出されたままの「あの時」という光景は、時間が経過しても未解決のまま在る。光景とはそういうもので、故にそういう意味として私は、写真機を使い、現像をおこない写真を眺める人生を過ごしてきた。辛うじて捉えられた一瞬の光景は、だから私の恣意から大きく離れた「現実」に過ぎないし、写真機を光景に向けた殊更な理由も無いに等しい。俗に考えられている写真の、コントラストや陰影あるいは対象のダイナミズムを美的に、などという行為ではないことを敢えて示す必要もないけれども、光景の時々を選び併置する「編集」(とはいえない)的な取り組みの中で、つまり凡庸な写真と云う力を借りた日々の記録にすぎないわけだと、落胆することはある。

 「未知を孕んだままの現実」としての写真は、冷酷なレンズとシャッターに全てを依存しているので、その性能が高ければ高いほど、「クリアな未知」が表出される。しかし人間の行為として気を許して引き寄せると、途端に情動的な機能性を発揮し、写真機のシャッターを押した人間の意識のコンスクエンスと豹変し、都合の良い物語を語りだすものだ。

 言葉とイメージあるいは物語といった情動的錯覚の取り込み(享受)を、一旦廃棄、切断する力を、「未知」に、私はもとめているといっていい。写真という現実の凍結の意味は、それを眺める態度にしかない。