存在の気質(かたぎ)あるいは見立て

 2016年末から2017年に向けて思うこと 

 この国では古来より「見立て」という意識変換に慣れ親しみ、和歌、俳諧、戯作文学、歌舞伎や、生け花、盆栽、茶の湯などからの派生、あるは小石を水の流れと「見立てた」龍安寺の石庭など、多岐に渡る文化として遺り、現在の診療や物事の選定、鑑定、精査にも使われる言葉として併用されながら、「日本人の見立て好き」(丸谷才一)、「対象を別の物になぞらえ、実在しないものをあるように思い描く」(川田順造) – wiki の指摘するように、英訳のメタファー(隠喩、暗喩)の範疇を越えた、謂わばひとつの「意識装置」として生活に備わっているかのように我々の深層で働きつづけている。いかにも非現実的な二次元のアニメーションにそれが投影され世界に広がった理由も、江戸の浮世絵を継いだ見立てにあるのかもしれない。
 コミュニティーの統率の必要などから輸入あるいは混合使用されてきた宗教的なことごとも、鏡を神に「見立て」、伴う作法を様々な意味の見立てとして様式化させ、意識をその変換に添わせることで、民を鎮めるなどしてきたけれども、「見立て」の中で顕われた事象(形態)には、共同幻想を誘発させることが前提の見立てであるからこそ、そのイリュージョン(のようなもの)を裏切らないように物質存在の気質を残すという特徴があり、樹木にしろ石にしろあるいは織物、焼物、紙、麻縄、などの歴史が伝える「材の見立て」では、自然の有り様そのものを侵犯陵辱せずに存在の気質の強弱を広げて示すかの近寄り方(あるいは離れ方)が作法となって伝えられた。
 そういった「見立て」の中に立ち位置を探せば、見立てる技芸反復の熟練が「さばき」「見切り」などとして習得される。外に立つということは「見立て」以外の装置を使用することを示し、あるいは「見立てない」、別の何物かになぞらえない、実在しないものをあるように示さないという態度を表明することになる。だが、この見立てるか見立てないかという二元論で立場を鮮明にしなければならない時代ではないことは、デジタルテクノロジー(存在の気質的実態の喪失)の進捗が示しており、つまり実体的なモノに依存することのない生活も不可能ではないと示唆されているのが現代性であるから(それが不可能だとしても)、「見立て」を今更殊更に大袈裟に考えるというとではなく、この特異性が発生し持続的に生活の基礎に繁茂してきた理由を解析する視野を寄せて、いうなれば今一度「現実性の恢復」を、生存の手だてとして再考する仕組みと捉える。
 「見立て」の弊害として、実在と非実在の境界が曖昧になるということがあり、西欧のプラグマティックな輪郭を明快にさせる進捗表象と比較すれば、こうした意識変換の慣習自体が、知らぬうちに生存実感の「現実」性を希薄にしているのかもしれないと思われる局面に屡々出くわすことはあるが、二元論では排他か擁護の選択しか見出すことができない。見立てを環境の暗黙知とする時ではないということだ。
 あらためて、存在の気質に近寄る見立てを、環境恩恵の意識装置であって生活へ馴染んだ特異な性質と踏まえ、さまざまな表出に見出すことは、地勢的自明な系のひとつの自覚とし、更にそれを対外的に示すローカリティー(この国の特異性)、場所から派生する根拠の大きなひとつの因であると再定義した上で、見立ての系譜とそうでない自立系を見極める視界を併置し、あるいは中間に位置する別の「変換装置」が必要と感じる。おそらくそのひとつは時代の空気を吸った「視覚藝術作品」なのだろう。
 言語自体が、記号象徴的に意味を運ぶ性質と、音節的な口語交信的な音響性を、パラドキシカルに交錯させている奇妙な認識ツールであることを視覚的に濾過して(例えば他言語への翻訳を前提とした再構築など)、漢字、かな、片仮名の、見立てを含んだ揺らぎの中で曖昧さの遊戯性を一度剥ぎ取り、ともなう言語認識的思考を形成する、「見えること」「使うこと」「感じること」という知覚把握を整理し、未知への対峙対処のねじれた錯綜享受の垂れ流しという環境文化の中に居る自覚を、あらためて批判構築する意識装置(知)として視覚藝術構築を捉え、実直に「気高く」行う者でありたいものだ。