擬態と未知

 小布施ミュージアム中嶋千波館で開催している小山利枝子展を観る。90年代初頭から約25年に渡る作品が展示されており、画家の仕事を体系的に鑑賞できる機会となっている。初期(1993)においては、タマラ(1898~1980)を彷彿させるコントラストとシャープネスが際立ち、画面に顕われる瑞々しい「花の擬態」はどちらかといえば、人間の想像力へ放り投げる抽象性へ傾いて描写的に寡黙であり同時にそれは当時の強い意志を示している。「絵画空間の中に一定の中心を持たせないで、全体性や単一性、均質性を保ちながら、絵画からイリュージョンを廃して、平面性を重視する構造を指すようになったオールオーバーな作品」(wiki)が多く表出した時代性(80~90年代)において、オーガニックな曲線へ自己同一性を求めたオリジナルティーの開発とその進捗は、こうして振り返って眺めれば、他の抽象やミニマルなものより、むしろ禁欲的でもあり、いかにも孤立感が漂うが、これ(孤立的自立)が画家を更なる執着(後戻りや転向はしない)へ促したと考えられる。アクリルによる色彩と線描という手法で、かなりスケールの大きな作品をつくるのはライフワークであり(本人談)、この画面の大きさにこそ支えられる展開(空間構築)が手法反復の足がかりだったとみてとれる。経年成熟を経て作品が淡く混濁し(複雑な時間を刻印)且つ擬態の抽象化という恣意が、こわばったもの(観念)から柔らかい許された(自らがようやく許した)ような形態(テクネ)へ変容している。
 対象へ目玉と筆を預けてしまう形振り構わない観察描写の徒ではなく、観察を観念へ堪えてから腕の撓り指先の始末として線を与え、線が促した面(色彩)に奥行きを施す意匠は、繰り返されることによって画家の世界観を重厚なものにするけれども、「未知」を示すという駆け引きを淡くするリスクもある。藝術が予定調和的なものでは無い所以を、画家の観察へ回帰するかのスケッチ素描群がそれを戒める日々と示している。個人的には某らの契機を孕んでいると眺めたパステル画には、アクリルでは不可能だった色彩への解放と依存が行為されており、色彩の強さに従うかに線は控えめに躊躇い弱く不安げな律動を示している。戒めの解かれた「未知」への探求の筋がライフワークである大型に投影される日が来るだろうことを待ちたい。
 こうした体系的な作品展は、画家の視線や手法の深化の過程を眺めることができるので貴重な機会といえる。