抑制と跳躍(軽やかさというコト)

 時間の経過がその固有生の可能性の幅を限定していても、なかなかそれには気づかない。あるいはその反復の制限されたこと(禁欲)自体が成熟を運び充足を与えてくれる場合も勿論ある。生の指向性が自立的な気概によって活性するか、なんらかの理由が契機になるかして、例えば気づきをもたらし、例えば成熟を運び、工夫がほどこされ更新される。ということに出会いたい。そうした姿と場所に藝術は兆すものだ。
 彫刻家二ノ宮裕子の新作(インスタレーション)の、モビール(ぶらさげ)からやじろべえ(併置)の動的構造を敷いたステラチックな遊牧的ソフトワーク(遠路搬入設置)の、まるで実験的な遊びに戯れる青年のような瑞々しさあどけなさのある表出展開をみて、作家の歩んで来た文脈があるからこそ成立する「軽やかさ」を考えていた。文脈を固持し「重さ」「スケール」に汗を流す保守的な態度をあっさりと横に置き、旅芸人のような豹変を創作へ注ぎ新しく自らの原型を探すことを厭わなかったことが「跳躍」となる。ヒトガタ具象彫刻の文脈がまずあり、形態の意訳は抽象的な切り詰めたものではないからこそ、詩的なリズムを含んだ空間の「風景」に繋がるのだろう。
 たたき出して湾曲させた金属帯も「雲」「風」の象徴となり、板材の切り出しも「山」「湖」となる。こうした率直で具体的なイメージの投射は、むしろ形態自体のもつ材質感を更に「軽やか」にさせる効果があるようだ。彩色を与え、やじろべえを乗せ、四本足、六本足の生物のような自立姿態となった半具体的な構成物は、展示空間を環境の俯瞰構造へスライドさせ、物語性(時間)のある場所論のゲームボードで遊ぶ気分にもなる。送り手と受け手が等価な眼差しを交差させ、インスタレーションの可能性を囁くのは楽しい。
 私は丁度タルコフスキー(1932~1986)の「アンドレイ・ルブリョフ(1360?~1430)」を時を擱いて観ていた。
wiki >>