酷い咳に悩まされた時間に、記憶を辿ることになったのは、THE BUTTERFLY EFFECTが起爆となったようだ。考えれば大したことのない脚本で、月並みな「あの時こうしていれば・・・」という分かり易い設定にまんまに騙されたようなものだが、なぜかこちらは惹き込まれた。人生の一期一会というある種の潔い諦めに対して、分岐の可能性を与えるという発想と表現はこれまで様々にあったが、ベストが得られるという従来のお約束のハッピーエンドでなかったことが、起爆を後押しした。つまり、分岐がどのようであれ、それなりのリアリティーによって、再構築されて現在が顕現するという映像は、なかなか説得力があり、限られた喪失の時間への回帰能力の、直感的な(いわばその場しのぎの)分岐への意志の形は、こちらのこれまでの過去に眠る、開かずの時間を刺激したのだった。
酒を呑むと、記憶が途絶えたことが多々あり、また、ある期間時期をどうしても憶いだせないことがあり、無視すれば済む事だと考えていたが、どうも、そのこちらからどうにかして離脱した時間と空間に何か現在を支える秘密があるように思えてならない。と、これは普遍的な人間的な心持ちではあるだろうが、記憶という漠然とした「効果」が、データベースなどを扱う仕事をする者として、現在に対してのパンドラの箱のようなものでもあるという気配は消すことができない。港千尋の記憶に関する記述が、時代的なアーカイブの精度に照応していることも事実であるし、世紀末に風靡した写真という手法も然り。記憶を人間の身体能力の側からでなく、最早、ツールインターフェイスとして外部に延長拡大している現実が、人間の反射反応能力と対に考えるフォーマットの一部として象徴的にあらゆる局面を刺激している。
齢を重ねる人間の生が、記憶を倫理的に扱えるのかというのは、宿命命題と考えたほうがよさそうだ。
失われた記憶のディティールを示すモノ(記述、映像)が、THE BUTTERFLY EFFECTのスイッチになる描写には、限りなく共感するのだった。と、書棚の「失われた時を求めて」へ指をのばす。
そして、「あの時」というものは、「現在」に確かに在ると感じる。