最近、こうしたメディアへの、ありのままを記述(記録)することのどうしようもなさ(エンタテイメント)を感じてはいるのだが、そうした表象の幾つかを、知性として認め、あるいは、可能性のある不完全な因子として、前向きな反復でこの身に刷り込んでみようかと、
真鍋かをりのここだけの話、
ワーホリ‥オンサイト,
亜矢:BAGHARD SKY,
HALCALI,
デキシード・ザ・エモンズ,
クライミング・ビデオの紹介,
オタク的お勧めCD,
などと、仕事の手を休めては、ホリー・コールのCALLING YOUを愚鈍にフレーズコピーしつつ、ブックマークに追加(徒労感はある)。左指先の皮膚が痺れ、反復する回数と平行してフレーズが指に宿り、同一化は案外簡単に訪れるけれども、同一化した音が促す次元は、その果てへであって、これははじまりに戻される感覚に似ている。さあ、それからどうするのと。
存在そのものを扱う立場を宣言(statement)する必要が状況としてあった。そのメソッドとして、幾つかを列挙し自分なりに検証する時間もあった。火葬されるこの身体(精神?)は残らないのだからと、残す「ノアの箱船」の明示を迫られたようなものだ。但し、その顕われには、こちらは存在しないことが前提という飛躍が条件添付されている。
こちら(実存)が喪失し、残すものが、つまり、私はこうであったと単純化(コンセプト)させることを仕組むか、描写の追いつかない風来坊であると、多様なアカラサマを開き直るかなどと、選択肢を迷うより、残されたモノの自立に任せるしかないことはわかっている。(それが固有名となる)
ゆえに、欲望の果てを探索継続するわけだ。はて、この欲望は、本当にわたし固有なオリジンを持つリビドーなのかと批判的な眼差しで繰り返しつつ。
しようと思ったらやればよいが、その責任を看取るのはなかなかむつかしいもので、これをクリアするには責任を欲望するシフトを呼び込むことが、手法としてひとつある。
人間の知覚は、単に(存在)そのものへ注がれると同時に昇華するものだ。受け止める器(レセプター)の成熟度が鍵。
面白いもので、そうした流れで辿り着いたレセプションの同一化(対象との)は、例えば、キッチンの窓辺にあるサボテンを「存在」させるにはどうすればいい? という「果て」へ繋がる。