幼少の頃、山村の借家の庭に座り込み、地面に穴をあけて泥を練る独り遊びの自身の写真があって、おそらく父親が撮影したのだろう、仕事の合間の探し物の時に見つけて眺めた。10歳になる頃は、ピアノのお稽古と平行して、まだ若かった父親の影響だろうか、はっきりと覚えていないが、書道塾に通い、生意気な眼差しで、皆の習いを下手糞と蔑んだ記憶がある。手本の上に半紙を置き、透かして筆を垂らすことを独りで繰り返して、物まね自体が醜い行為だという自覚が生まれたのも、まだ下の学校のやんちゃな餓鬼の時と記憶している。
高度成長の活気に溢れる時代のニュアンスは、スマートな格好良さを皆が求めたが、それまでの事実を覆い隠す翳りが必ずその不格好な即席の中にあった。フォーマルな道など成熟させる時代ではなかったので、つまり、皆が臨機応変な倫理でその場をあやうく凌ぐように生きていた気配は、子供でもわかった。
自身は稚拙で、凡庸な類態で結構だが、一度座り込んで練り始めれば時間を忘れる楽しさを、ゲルマニウムラジオや、油絵、自転車の改造など、簡単に目の前に見いだしていたものだ。その浸りが、結局こうも長く自らを支配するとは、当時は考えてもみなかったが、それがこちらの本性と諦めても、今は辛くない。
仕事を合理的に進めることは、だからこちらの性分に合わないということになる。GW明けから取り組みはじめた仕事も、計画を幾度か白紙に戻す有様で、だがそうしないと先へ進めない。ひどく愚鈍な歩みで情けない。とまあ、実はにやにやしている。だから、自身に因んで優秀なスキルとはつまり、達観や閃きではなくて、歩みを疑わぬ実直さでしかないと、最近つくづく思う。