土曜日の通勤の東西線で、列車のスピードがいつもより早いと気になっていた。東西線はJRに乗り入れる為か、ダイヤが狂うことがしばしばある。落合と中野の真ん中で信号停車もあり、暗闇に地下鉄が停車している時はまだいいが、速度が早まるといらぬ不安が頭を擡げる。そんな時に限って、列車内の痛みや、乗車している俯く人々の表情が、暗く仄かに照るように感じて、まるで、あの世からこの世を眺めている目つきになる。
今日の午前に起きたJR福知山線の脱線列車事故の一報を聴いて、一昨日の不安が次元を超えて現実化したような錯覚に終日まとわりつかれた。様々な憶測を呼び込まないよう、ジャーナリズムは報道を抑制した一日だったが、これは、金属疲労や悪意の絡むものであっても、人間の間違いによって発生したことには変わりない。現代は、ライブドア然り、チェルノブイリ然り、突発的な事故事後しか反省と戒めが生まれないような社会を形成してしまっている。地震などの不安も、日増しに積極的になる報道や番組によって、生存率へ向かって臨機応変な対応が準備されるほうへ傾けばよいが、いずれにしろ、あり得ないという仮定で形成する社会構造は、過去へ残せる遺産と云えない。
こうした事故で、不意に生を喪失するその人は勿論、家族や近しい人の気持ちは何処へ向けられるのだろうか?根本的な何かが足りないこの国の、これまで隠すようにしてきた本性が露になるのが、こうした事故でしかないということは、哀しいものだ。
NHKは、ほぼ一日この事故の報道に終始したが、チャンネルを変えると、笑い声が響き渡る番組が放映されており、大人げない番組編成側の態度に、幾度か吐き気をもよおした。