朝方の湯槽で読んだ「The world and Film of Andrei Tarkovsky / キネマ旬報社」で、確認したいことが幾つか浮かんだので、夕方に、Iwan’s Childhood(1963) / Andrei Tarkovskyを借りに行き、家族が寝静まってからF828で撮影しながら観る。(これで一体何度観ただろうか?)
Elephant(2003) / Gus Van Sant(1952~)DVDが棚にあったので一緒に借りて、ようやく観ることができた。以前公開時にTsurutaからよかったですよと勧められていることを憶い出す。
いずれも撮影の手法を興味深く学習する。このところ自身の制作課程構造の確認を煮詰める時を迎えており、具体的な「世界」の描写の仕方、あるいは言語化している世界を眺める態度に関する明快な約束事と、符合するモノを二人の監督に見いだしたので、頷きながら眺める。夥しく頷く。(こういう言い方も妙だが)
キャメラということにやはり辿り着くのだった。
Elephantは、映像が非常にクリアで鮮明。キャメラの動き、照明等のセッティング、ロケーション反復とレンズ性能等が迫る映像優先の手法(脱脚本・脱演出:台詞のほとんどはアドリブ)は、ただしい。設定上俳優が皆若く稚拙なので、そのあたりに不満が残る。Gentaがいずれ撮影しそうな映画のような気がした。
「僕の村は戦場だった」をAndrei Tarkovskyが28歳で発表したことを憶いながら考え、Gus Van Sant監督の年齢が、少々作品を箱庭のように感じさせるのだった。キャメラの眼と、映像作品の自立のバランスは、互いが互いを喰い合うので、むつかしいということだ。だがこういう成熟はあっていい。おそらくこの印象は、監督の責任ではなく、時代が齎しているような気がする。


俳優の自然な身振りを優先する脱脚本・脱演出も、限度があり、寛容の淵ギリギリまで我慢しすぎると、対象世界の予想しなかった未熟が顔を出し、同時に制御(キャメラの眼)側が異様に突出して、計画を台無しにする場合があることをElephantから知る。Elephantは、辛うじてそのモチーフによって危ういバランスを保ったとも云える。
こちらが考えたいのは、最早、「引用」を事実に求めるわけではないということだ。