学校帰りに、Harada、TanaamiとWolfgang Tillmansを観に初台オペラシティーに行く。展示の仕方を参考にしようとインスタレーション自体に興味があったがはずれ。作品も残ったものは、どこかメープルソープに似た静謐さを持つ、Alex(1997)というタイトルの肖像と、層(Layers2000)というインクジェットプリントの静物光景作品だけ。Freischwimmer(遊泳者)というシリーズ化されている大型作品は、2Fで併設していた、野又穣「カンバスに立つ建築」、リヒターがアメリカに帰化して撓んだような小西真奈展の、所謂絵画の独我性を、それ以上近付かないでくれと懇願したくなる体臭を伴った悪しきものと際立たせる意味で気持ち良い程度で、帰りの地下鉄で長い視線に耐えられるようには思えないと考えた。ビデオインスタレーションも、内容が無いのはいいとして、システムや音響などがお粗末。VEのほうが数段クオリティーが上。ギャラリー側、あるいはキュレーションに手抜を感じる。観客をなめるなよ。異種格闘技を真似たような併設展などやめてほしいものだ。ティルマンスのカタログを捲ったが購入せず。帰宅後、Philip-Lorca diCorciaを捲って、彼の展覧会を眺めたいと祈った。
90年代に、写真という手法が、時代の透明度の進行と平行して実にフランクに展開し、それらの享受自体も勿論ワタシを含め、豊かに行われていたわけだが、2004年あるいは、2005年以降の手法として見据えると、アンチセンスとアンチタイミングだけでシャッターを押す、気取りを削除しながら時間を凍結させる身振りは、むしろ携帯のマルチ機能を自在に操る子ども達と、世界の緊張状態に身を投じるジャーナリズムに軍配が上がりそうだ。写真に現れる、生活自体を捉える固有性もどちらかというと、撮影者の態度の矯正に内向する怖れがあり、これは前述した悪しき絵画性に符合する事もあり得て、気味が悪い。いずれにしろ写真が思想となる開かれた手法を緻密且つ大胆に構築する意気地がなければ、眺めの持続性が失われるだろう。現在はその岐路にあると不に思うのは、臆病な予感だろうか?