先週末GentaにかしていたDEREK JARMANのBLUEを返却してもらい、これを聴きながら、非常に地味な反復の積み重ねのような仕事を続ける。Gentaは山形米子に旅立っただろうか?
どちらかというと独房のようなところに閉じ籠って、ひたすらひとつのことをしたいわけだが、こまごまとした催促に応じ、営業や打合せのために短い外出が重なり、そういう時に限って大切な買い物を忘れ、都度集中が中断されるストレスで構成されているようなワタシの仕事の環境は、突然カラダの思いがけない部分を壊すようだ。限定された利益を目的としたデザインなどの構築をする場合、意匠説明を求められる機会が多いが、説明を求める側に、説明を聞くつもりが無い場合が多い。そんな時は流石に草臥れて、言葉を喪失する。そもそも説明の必要のない形を構想する立場を説明している莫迦ばかしさに自身で気づくと、存在の平等な併置が虚位となって、あなたさまのおっしゃるとおりにせよということですか?と家畜人のような気分になり、革命でも起こしたい「悪意」が芽生える。ぐっとそこんとこ堪えてもらえないでしょうかと近寄るとことん我侭な人間もいて驚いてしまう。やはりこういう立場を持続する場合、そういった認識を共有する能動的且つ有能なマイノリティーを構成しなければおそらくだめだろう。いまだに支配という幻想が蔓延している。
子どもたちの要求を飲んで、夕方から、PETER PAN, CONFIDENCE,BROTHER BEAR,着信あり、等を観ていた。邦画の貧しさは、独我的差別的な制作環境にあるなと、PETER PANの制作風景を眺めて感じていた。邦画のキャメラマンと欧米のキャメラマンの待遇の差異を知ると理解できる。最近の韓国映画の台頭は、おそらくこのシステム獲得にある。これまでに大陸の人間の個人を尊重する場面に出会う度に人間を眺める瞳から鱗が落ちたものだ。ひとりの人間の個別性をとことん嫌うこの島国の集団社会性は、どうにもならんね。旅はいい。
夕方から、MAX(アドルフの画集)を観る。1918年の時代描写に物足りなさがあったが、脚本を書いたMenno Meyjes(1954〜)自身の監督デビュー作とは驚き。撮影地はハンガリーブタペスト。成る程オープニングの鉄工所画廊の錆びて荒廃した美しいシーンの成熟した落ち着きに得心したのだった。物語よりも、光景のリアリティーを求めたいこちらとしては、再度ミュートして眺めてみるつもりが生まれた。日本版サイトのgalleryにある壁紙をダウンロードする。