学校帰りの次女と約束していたプールへと、壊れたカラダででかける。クロールの練習に全身を傾ける娘が羨ましい。支えて付き添う為、勝手気侭に泳ぐことはできないが、それにしても水は全てに良いようだ。一昨日長女に600円支払い、素晴らしく性能のいい電動バリカンで上手に頭髪を3ミリにしてもらった。スイミングキャップがぴったりと頭に吸着するので鬱陶しさも幾分晴れた気がした。
3時間眠れば大丈夫だと言ったその後、朝から昼過ぎまでカウチに気絶していた。6時間。夢の記憶も無い。起き上がっても眠っていた実感がない。時間の過ぎていることに首を傾げたくなった。ひとつひとつを、真っすぐな時間軸に繋げるように進行させたいのだが、様々な事情がそれを許さない。仕方なく平行させ、さっきまで懸命に束ねた緊張を眺めてしまうと、解体へと別の欲望が走る愚行の発作が起き、そういった平行事を台無しにする。そして、結局すでに行った決定を繰り返すことになる。読書は、だから、振り返る事を忘れるためのようなものだ。同じような意味合で水の外でも水泳のための耳栓が離せないことが不健全ではある。
硝子を支える意匠プロダクトを鋳造かなにかで作らないとだめだとプールに潜った時あっと気づいたのだった。続けて、プールがひとつの完結した社会であると面白いなどと。泳ぐだけという人生の構築。水の循環がひどく進化すると、水がひとつのツールあるいはインターフェイスになる筈。等と転がす。週末に長野。