要領よくあるいはずる賢く先手先手と生きることの優位を、多分高度成長社会と義務教育の理念として強要されたという意識が幼いカラダに染み込んでいた。恥じるべきは猾さでありと戒めたのは、まだ中学になる前だった。狡猾な仕草には嘔吐をもよおす蔑が顕われていたし、要領を得ない愚鈍な反復は、その鈍さ故に皆が布で覆い隠そうとしていた。
何を行うにも、まず形にしてから解体と再構成を繰り返すしかない「ワタシ」のカラダの手法は、云うならば愚鈍であり、無駄が多い。間違いをしてから、その間違いに気づくしかない。日々知恵を絞って出来る限り無駄を無くそうとするが、むしろ年々無駄が増えている自覚がある。だが歓びは、無駄に比例する。奇跡的に、立ち回ることができた狡猾な罠の成功時は、後ろめたさしか生まれない。
Hans Haacke : GERMANIA : 1993を長い間眺め、その眺めの愚鈍な想起の反復の内に彼の彼方を知る。