1934長野発2117東京着の新幹線で帰宅。椅子に座ってから外で雨音が聴こえ出した。午前中に、五箱の宅急便をまとめて、最後の片づけを行ってから、夕方まで眠ってしまっていた。夢の幾つかも覚えていた。よくもまあ、無茶な構想を実現できたものだと、まだ眠り足りないカラダをシートに投げ出して、ぼんやり思っていた。はるばる遠方から観に来てくれた方も多く、また、今回のプロジェクトを様々な形でサポートしてくれた皆さんに感謝します。後日個別にメールで謝辞を送付します。小高さんのコーヒーカップで早速tsuruのエスプレッソを飲むと素晴らしい。長女の里奈が、スピッツの新譜「色色衣」を聴かせてくれる。これがまた、なんだか現在のカラダの充足に感応して染み渡るのだった。VE_Projectは、はじまったばかりだが、なんとかやっていけそうだ。Takenouchiのシステムが間に合わなかったが、彼の努力は評価したい。今後も、より歓びに満ちた展開を考えたい。


何も特別な事が起きるわけでもない淡々とした日常の、けれど克明な描写、眺め、記録は、ドラマティックではないし、大げさな自己主張も無い。そこを睨んでもただこちらと無関係な光景があるばかりなのだ。その光景に個別に出あう者の、事実を受け入れると共に、その事実の正当性を問う嘘の無いクオリティーは、だが、アプローチのメソッドで随分変わるものだ。VEは、こうした併置を繰り返して、アプローチのメソッドの構築を各眼差しに促し、眺めの差異を提示するのではなく、眺めの各々の正当性を並べ置くことで、明快な光景の向こう側にある、生の彼方を予感するシステムとして、成熟するだろう。そして、あるいは、唯物的な展開の可能性も含んでいる。眺める者は、だから、妙に気取る事無く、脚を踏んばった程度に正直に、自由にキャメラを構えればいいだけなのだ。この時の自由には、本質的な意味で、命令されることのない振る舞いが存在する。その振る舞いは、そして、ただ世界をありのままに見えるようにするだけにすぎない。これは、非常に恐ろしいけれど、同時に豊かで、歓びに満ちた人間性を喚起させる。