見知らぬ人が隣に座り、唐突な案件の経緯と処理の手法説明をはじめる。こちらが耳を澄ませるようにその説明は辿り返す部分も多くなるべく判りやすくと至るところに工夫があり、彼の態度に自然とこちらは身を預け、いっそどっぷり聴く気になっていく。これは新しい態度というより、田中康夫が知事就任時に、古くさいような「公僕」という概念をあらためて示したような、妙に新鮮に蘇った凡庸な「尽くす人」を想起させる。
アサッテの人 / 諏訪哲史(1968~)の印象は、執事の業務報告を聞くようでもあり、それが文体構造に徹底している。吃音のトラウマが発端となる叔父の意識的な雛形(制度・形式)からの逃走意志である、無意味な言葉の発声行為の解析と妻の喪失後の失踪迄の経緯を、叔父とは兄弟のように育った語り手は、読者と明示した読み手に対して、徹底的に説明しようと足掻く手法開示の姿勢が、これまでの小説という寓話形式を大前提に上から差し出す家元のようなスタンスから逸脱する態度ともとれる。

吃音から厭世が生まれた反動としての図は、社会に対して相対的に孤立するある意味ではこれも雛形であり、凡庸の捉えと違和感による逃走も繰り返されてきた人間的な意志の在り方であるから、物語の示す「それから」という可能性への食指は萎えるが、最後に加えられたメモの添付のような締めくくりは、何かこうした図を思い切りひっくり返したいと重ねる作家本来の意図と考えると、スクリプトギミックとしてネスト構造の作品パッケージをプレゼントされ手にして眺める、少し嬉しいような気分になった。と同時に、こうまで執拗に歩み寄らねば伝わらないものかと首を傾げたくもなったが、解る者にだけ解ればいいと構える偉そうな態度よりましだと本を閉じ、次作を注文した。

ポンパ、チリパッハ、ホエミャウといった言葉を思わず発音しながら、 ミラノから車でベルリンに来ていたマリオに、グラスを叩いて、「コンコン」「ツルッツル」と日本語の擬音を説明していた時を憶いだした。マリオはウヮオーと叫んでから、はじめて言葉の自由を得たような無邪気さで何度も発音を繰り返し、目を輝かせていた。20年も前のことだ。

画像出力に頓着し、機器の愚鈍な処理の横でこの作品を読んでいた。吐き出されて並んだ平面の回りを歩き回り、これは人の世だと、眺めの把握の処理として、なんとも凡庸なトートロジーに酔うような言葉が浮かび、幾度も転がしたが、これを棄てきれずにドメイン取得迄突き進んだ。


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STRAVINSKY(1882~1971): Music for Piano Solo(2008) / Victor Sangiorgio (piano)

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Sylvie Guillem(1965~) / Youtube