正月を過ごした長野は、暮れよりも幾分気温が上がって、暖房しなくともよいとまではいかなかったが、晴れた午前は、庭先の雪も溶けた形に崩れ、肩を竦め歩いたいくつもの雪降る朝の記憶が幻のように思えた。いただく酒の量が極端に減ったと自身を眺めていた。
rejoicing(喜び)を、今年の歩みのテーマ、コンセプトとして、研き直す、洗い直すと年末に決めていた。機器の足りない環境で、必要に迫られ、近所にオープンしたラオックスで、ちょっとレヴェルの高いヘッドフォンを購入。ノートに接続し驚く。デジタル音がまるで違って聴こえる。BOSSの、外音を遮断する大げさな耳を覆う形に、騒音除去波の鼓膜への照射が、地下鉄の中でも静まりをつくるという驚くべきアイディアを加えた、件のモノには流石に手が出なかったが、二万ほどもすれば、こうも性能が露になるのだと、素直に喜ぶ。年末に会った小野君のDATによる日常の環境音の記録の話も、こうした意識と絡み合った。
音響の必要性は、情動を誘うということの全く正反対の意味で以前より感じはじめていた。率直なカラダの享受の形に従うだけとは少し違う。それなりに考えると聴き耳の集中の時間が要求され、決断には複雑な断片を積み重ねなければならない。眺めを成立させている微細な環境を細かく列挙して、単純な対峙とか再認識とかいった鵜呑みを都度翻す力を持つストレートな光景には音響が伴うことが当然ということ。自らの傾向として、音響ならば音響ばかりに偏りがちであるから、なるべく瞳を閉じないで音を感じる訓練でもしないとダメだな。