手足を無理に曲げたり引いたりすると、「イタッ」「ウッ」「オイ、ヤメロ」とか言うぬいぐるみがあるといいなと娘たちと簡単に話していた。企画会議で開発と販売計画が決まり、さて売り始めるとこれがとんでもなく売れる。呻きのボキャブラリーも増え、最初はクマのみだったが、サル、ウサギ、シカと形態を変えると、全種類欲しがるマニアまで出現する。企画が成功して関連会社は大いに潤った。だが、調子に乗って動物だからと人間の「カズ君」「ミランちゃん」を売りだした途端、イジメのシミュレーションだとかいった苦情が殺到し、挙げ句に商品の回収とまで落ちこんだ。とまあ、こういうこともあるだろう。そして実際この国で行われているあらゆることが、そういう罠のような気もする。モノ作りが欲望という需要に支えられなければならないことは事実だが、成熟する人間の得ていく知恵や誇り、蓄積を伝授され、あるいは伝授自体を改良した技術などが発酵して、いいようのない輝きに包まれているモノを構想し、つくりあげるということがぽっかり喪失している。作り手は感動や共感のエコーが消えないうちに生成の基本に立つことを繰り返すしかない。趣味という言葉を完全に死語にしたいものだ。