narcは、久しぶりに納得した。脚本も、俳優も、映像もキャメラも良い。ひとつの正当性を貫く為のリアリズムが実に巧みに描かれている。DVDが欲しい。一緒に借りて観たdeadcoaster_(Final Destinationの続編)は最低劣悪。近くのサービスラボで白黒現像をした現像がひどくて驚く。二度とあそこには頼まない。
趣味的な好き嫌いのコミニュケートの場合、その傾向を示す場合も受け取る場合も、「こうです」「ああそうですか」と閉じている情報を転がすしかないから、本来的な出会いに発展しない。ひとつの普遍性を示す多くが、この罠に陥るものだ。善や正義や倫理を示す時、レトリックや相対的なコントラストで描くだけでは、本質的なものは据え置かれたままで、装飾を剥がすと何も得るものがない。昨今の映画表現に必ず描写される銃、ナイフといった殺戮の道具は、そういった意味で、趣味的に描かれるものがほとんどで、ある部分が欠如している。真っすぐに、銃を握るべきでないとか、人を殺すべきでないという表現は勿論馬鹿げていて、それは脆弱な信仰でしかない。多層社会を貫く表現においては、そういった道具と人間との関係をデリケートに且つ可能性の篩(あるいは独我の切り捨て)にかけて扱わなければ、説得力が生まれない。子どもたちや老人らの見るアニメや時代劇の、善と悪との関係の浮き彫りに使われる全く人間的でない、力のシンボルにしかならない。この国では、殺戮の道具で人を傷つけるのは、精神的な病と判断し、そういった道具ともども、隅に寄せるか排除しようとする。加えて、健全、正常とは何であるかということは時の流れと共にリアルタイムで突き詰め続けなくてはいけない問いである筈が、曖昧に頷く程度の認識こそ美徳とされている。
今後試される表現には、悪人は、顔が恐くて、性格が悪く、ひどい家族がいるといった低俗な設定が作り手の自覚において消え、まず相当に複雑に構想されたリアリズムがあり、そのありふれた環境自体を問う形を徹底して倫理構築するものが、王道となるべきだ。そういった意味でNARCは、DirectorのJoe Carnahanの、思想を感じることができたのだろう。音楽、音響もよい。インタビューも、作品に矛盾していない。