仕事の合間にゆっくりと捲った「グランドミステリー」を読み終ると、中間試験の終わった長女が安部公房の「砂の女」を読み終えたと言って、「グランドミステリー」を部屋に持っていった。奥泉光の「石の来歴」を書棚に探して、再読してみようと思ったのは、作家の妙な粘りが、巷のエンタテイメントからずれている作家といつだったか勝手に位置づけたことがあり、また加えて今回の物語の、所謂ストーリーの設定の、作家の創作初期の頃から反復するモチーフを、別の意味から探りたい気が起きたからだった。1600枚の長編は、飽きることなく読めたが、登場人物たちの現実感がしばしば、どこか紋切型であるような気もした。以前から、独り言というそれ自体の宿命として在る「狂い」が、反復の果てに普遍を帯びるような文体で貫かれている作品を好んでいるが、ときどきこちらもカラダをパウチに預けてリラックスし、騒音が錯綜する大河に委ねたいと思う。けれども、設定や描写が精緻でも、人間の仕草が凡庸であると、途端に面白くなくなる。今回は、それでも放り投げるところまでいかなくてよかった。埴谷雄高「死霊」や、澁澤龍彦など想起させる作家の趣味性を直視する気にはなれなかったが、全体の構造が面白い。戦争体験の無い世代である作家の、第二次世界大戦に関与しようとするココロを、そのまま引き連れて「石の来歴」あるいはそこから「ノウ゛ァーリスの引用」を再読しようと考えた。私の世代の父親は微妙な世代で、ある友人の父親は、士官レウ゛ェルの戦争体験があり、私の父親は、ぎりぎりで戦場行きを免れている。情報や記憶も、大いに差があり、とくのその部分の肉親のリアリティーは、言葉にしてみないとわからないことが多い。父親にも饒舌で真実を語ることに前向きな人間もいれば、隠蔽して、悪しき事柄に封印をする人間もいる。こちらとしては、戦争倫理といった説教を偏ったスタンスの人間から聞きたいわけでは勿論なく、所謂豊穣な差異に満ちていた戦争という臨界状況の多層な構造を正確に知る事ができればと願う。奥泉光という作家は、そういう意味で面白い。だが、装丁の表紙の絵はどうしても許せない。ちなみに作家の公式サイトである「バナール主義」とは凡庸でありきたりな主義ということらしい。