「ノウ゛ァーリスの引用」「石の来歴」等は読んでいた奥泉光の「グランド・ミステリー」導入ープロローグを捲って、即座に、高村薫等では、物足りなかった、言葉を道具として使う率直な姿勢がそのまま文体に現れているので、読みはじめることにした。作家は1956年山形生まれ。この作品は1998年3月に出版されている。高村薫の例えば、今長女が読んでいる「マークスの山」は、文体に、どこか演劇臭い作家のエゴ(演出)が、文脈や構造を骨抜きにしてしまうところがあり、読み終えると、カラダが片方に傾いてしまう。厳密な時間軸に依存するリアリティーを構築する場合、その時空間の把握に偏りがあるとつまらない。この「グランド・ミステリー」の読後はいかなるものか?
奥泉光と漢字表記は別にどうってことないが、「おくいずみひかる」と発音すると、子どもの稚拙なジョークのように響いて哀しいのは、私だけか?